12. 庭 V

 植物に露がついているのを見るためには、朝早く起きなければいけない。早起きは苦手だが、そんなことを言ってはいられない。ダイビングに行く時のようにがんばって早起きし、朝のまだ涼しいうちに庭を回った。
 花に朝露がついているのを見つけることができた時には、「露を分けてね」と植物に頼み、それを口に含んでみた。
 露を味わいながら経験したこと、気づいたこと、不思議に思ったことをノートにとり、自分なりに答えを考える。
 でもすべての植物に、いつも朝露がつくわけではない。
 マリーに相談してみる。
「夜中や明け方に雨が降る時があるでしょ。それで花に雨粒が残っていたら、朝日が出て露に陽が当たるのを待つの。それを試してごらんなさい」
「それは朝露と同じなの?」
「少し違うけれど、植物の本質[エッセンス]が映されている点は同じよ」
 そうやって根気よくとり組むうちに、露を口に入れた時の感じが花によって違い、異なる内的な感覚をもたらすのを経験した。
 新しく気づいたことを話すたびに、マリーはそれらを互いにつなぐための手がかりを与えてくれた。
 一つ一つの植物の姿を、全体と細部の両方から見ること。
 その植物の立ち姿、葉や花の色や形といった、植物が自分を表す身ぶり[ジェスチャー]を見ること。
 そこから感じられる植物の性格——本質[エッセンス]を想像してみること。
 もともと生物学専攻で、植物の分類にも一通りの知識のあるセレスティンは、植物の姿と、自分の内的な経験の関係を探しながら、植物と向かい合った。
 それぞれの植物には個性があり、それがまわりの環境と関わることで、植物の存り方の表現が生まれる。同じ環境に対しても、植物によって関係の仕方が異なることにも気づいた。
 「植物も人間と同じなんだな」そんなことを考えながら、その植物を人間に例えて思い浮かべたり、この植物に妖精がいたらどんな姿かと想像してみたりもした。
 それを落書きのような絵に描いてみると、植物たちも、いっしょに見ながら面白がっているように感じた。時には小さな生き物が肩に乗って、ああでもない、こうでもないとつぶやいているのが聞こえるような気がした。
(ああ こうやって植物たちと過ごしていると幸せ……)
 庭に転がって自分の書いたメモを読んでいるうちに、うとうとすることもあった。
 そんな時にはよく夢を見た。夢の中ではいろんなことを見たり聞いたりして、その時はとても鮮明なのだけど、目が覚めてしばらくすると内容を忘れてしまう。
 そのことをマリーに言うと、「目が覚めたらすぐに、見た夢を記録する習慣をつけるように」と教えられた。
「夢を見ている間と目が覚めている間は、意識の状態が違うの。夢の世界からこちらの世界に戻ってくる、その切り替わりの時に、夢の経験は意識の深いところに滑り落ちてしまうのよ。
 でも、目が覚めたばかりで、意識がまだ夢の世界につながっている間に記録をとる習慣をつければ、必要なことは持ってくることができるようになるわ」
 言われたようにいつもノートと色鉛筆をそばに置いて、見た夢はどんなものでも書きとめるようにした。
 そうするうちに、目が覚めてもすぐに意識を完全に覚ましてしまうのではなく、向こう側に片足を残して、その状態で見たことを、こちら側の言葉に落とすことができるようになってきた。

 ある時、花につく露ってそもそもなんだろうと考えた。
 科学的には、夜に気温が冷えて、空気中の水蒸気が凝結したものが露だ。それは自然現象で、だからそれが起きる気温や湿度といった条件がある。
 それなら日によって露がつく時とつかない時があるはずだし、露がつく時には、すべての植物の葉に露がついていい。
 でもマリーの庭で植物の観察を続けていると、気温や湿度に関係なく露をつける植物があった。
(葉っぱの表面の性質とかなのかな)
  とりわけセレスティンの興味を引いた植物があった。少し銀色のかかった緑の葉が地面を覆うように広がる。ドレスのようにしわのある葉っぱには、今朝もたくさんの露がついて太陽の光を反射している。
 葉っぱの形や全体の様子から、バラ科のアルケミラ属だ。「聖母のマント[レイディーズマントル]」とマリーに名前を確認してもらい、それから自分でもっと調べてみる。
 「中世の錬金術師が賢者の石を作るのに用いたという伝承があり、アルケミラという学名がついた」とあった。「縁どりのある葉がマントに似ており、薬草として婦人病の治療に用いられたため、「聖母のマント[レイディーズマントル]と名付けられた」。
 賢者の石ってなんだろう。錬金術師って、鉛から金を作ろうとしたっていう人たち?
 セレスティンがそのことについて訊ねると、マリーは「中世の錬金術師[アルケミスト]たちも、レイディーズマントルの葉につく露を集めていた」と教えてくれた。
「でも錬金術って、鉛から金を作ろうとしたんでしょ? それに植物の露を使ったの?」
「いいえ。錬金術というのはそもそも、物質としての金属を扱うものではないわ。鉛や金というのも象徴に過ぎないの」
「象徴――」
「鉛の性質について、どんなことを思いつく?」
「重くてもろい。表面がすぐ酸化して黒くなる。安くていろんな用途に使われるけど、毒性がある」
「じゃあ、金の性質は?」
「金色に輝いてる。柔軟で、ものすごく薄く広く延ばすことができる。電気や熱の伝導性がとても高い。時間が経っても錆びない」
「鉛が人間だとしたら、どんな人?」
「んー 重くて鈍い」
「金が人間だとしたら?」
「美しくて、柔軟で、鋭敏で、しかも強い」
 マリーがにこりと笑う。
「錬金術[アルケミー]というのは、人間の魂が鉛のような状態から、金のような状態に変化していくための道筋を示すものなの」
「そんなことができるの?」
「それができると信じて、そういう道を歩く人間をアルケミーの実践者[アルケミスト]と言うの。その過程をアルケミーの変成プロセスというのというのよ。
 錬金術の本質について、近代で最初に明らかにしたのはユングだったけれど、それはアルケミーの実践者たちには昔からずっと知られていたこと。ただ道の外の人間には秘密にされていただけ」
「どうして秘密にしたの?」
「人間が自分自身の力で自分の魂を救い、高いものに変容させることができるという考え方が、キリスト教の教義と相いれなかったから。
 人間の歴史の中では、知識を運ぶ人たちが自分たちの身を守るために、隠す必要のあることがたくさんあったのよ」
 セレスティンの中でいろいろなことがつながったり、また考えないといけない追加の疑問が湧いたりした。
「もっとも鉛を金に変える方法があるというのを、文字通りに信じて本気にした人たちが、物質の変成を試みていろいろな実験をして、それが近代化学の基礎になったっていう面白い脇道も生まれたわね」

 マリーの言葉を思い出しながら、セレスティンはレイディーズマントルの観察を続けた。
 あまり人目を引かないこんな植物にも、とても面白い歴史がある。そんなことをそれぞれの植物たちから聞くことができたら、どんなに楽しいだろう。
 レイディーズマントルの葉には、涼しい朝であれば毎日のように露がつく。
 まだ花は咲いていないので、大きな葉っぱの上にころころと転がる露を指で拾って口に含んでみたが、花の露とはちょっと違う感じ。
 やがてレイディーズマントルは、小さな黄緑色の花をたくさんつけた。近くでよく見ると可愛い星みたい。まるで萼[がく]が花になり切らないような色と思って調べると、この緑の八芒星は、四枚の萼片[がくへん]と四枚の副萼片が合わさったものだった。
 翌朝、早くに起きて花についた露を見つけることができた。
 なめてみると、葉についた露とやっぱり違う。自分のもっとずっと深くに届く。
 その質をしばらく感じてからもう一度、露をふくむ。
 胸の奥がきゅっとするような、ため息がでるような。愛おし過ぎて切ない、そんな感じ。
 やがて眠たくなり、緑の絨毯の上に転がる。
 うとうとと意識が違う場所へ入っていく。どこかへ深いところへ降りていく。
 自分が地球を覆う緑の衣の一部であるのを感じる。その衣の下にある大地の肌。それは温かい。
 たくさんの生命たちのイメージが流れ込んできた。そのすべてが自分の体の一部。
 緑の衣で覆われた地球、そして自分はその一部……。

 いつの間にかブランケットに包まっていた。レイディーズマントルのそばで眠っていたセレスティンを見つけて、マリーがかけてくれたのだろう。
 
 マリーの持っている膨大な量の知識からすれば、いろいろなことを、学校の講義でもするように教えてしまう方が、ずっと容易だったはず。でもマリーは忍耐強く、セレスティンが自分で何かに気づき、質問をするのを待った。
 自然の言葉を学ぶことは、人間の言葉を学ぶのとは違う。それは自分の目と手と心で、自然との関係を築くことを通して学ばれる。
 学んだことが自分の中で形になるには、ずいぶん時間がかかるんだろうなと思ったが、それは気にならなかった。
 なぜなら、マリーが目の前にいたから。
 自分が学びたい何かをすでに身に付けている人がそこにいる。ならば、その方向に向かって歩いていけばいい。
 マリーがいて、その背後に彼女の庭がいる。そしてその背後にはもっと大きな自然がいる。彼女の庭は、自然が教師になって教えてくれる学校だ。大きな自然の中の、わかりやすい小さな自然。
 自然にはその中のさまざまな要素をつなぐルールがある。科学は科学なりのやり方で、それを見つけ、並べている。
 でも自然の背後にあるルールの中には、科学以外の視点から理解することが必要なものもある。
 科学というのは比較的目の粗い篩[ふるい]で、そのやり方ではこぼれ落ちてしまう、ずっと精妙な要素があるということに、セレスティンは気づき始めていた。

続く