3. 舞い降り

 

 ルシアスが女性に声をかけたのは、彼女に「普通ではない」質を感じとったからだった。

 それは一種の既知感のようにも思われたが、どこかで会ったというはっきりした記憶があったわけではない。打てば響くように相手から反応が返って来るとは、予期していなかった。

 女性の運転する車は、ダウンタウンからアラモアナ方向に向かい、途中で左に曲がった。

 山に向かうのか。

 大きく曲がりくねる道をはうようにたどり、コオラウの尾根づたいに急勾配の道を登る。車は繰り返し大きなカーブを描き、高度を上げていく。途中通り過ぎた州立公園の林には、針葉樹が混じっていた。

 ホノルルを眼下に見下ろす高さまで登ったあたりで、車はゆっくりと細い脇道に入った。舗装もない私道をしばらく進み、わずかに開けた草地が現れ、停まる。

 車を降りてまわりを見るが、樹々の緑に視界を遮られる。

 女性の後をついて木立を抜けると、小さな道の先に金属製の門が見えた。その向こうに、まるで樹木に守られるようにしてある二階建ての家。

 庭に足を踏み入れたセレスティンが、うれしそうに声を上げる。広い敷地を埋める瑞々しい緑は、オアフで見慣れた亜熱帯の植物ではなかった。アメリカ本土のどこかで、春の庭先に足を踏み入れたような錯覚を覚えた。

 庭のテーブルに二人を案内し、苗木を降ろすと、女性は家の中に入っていった。

 セレスティンは待ちきれないように手近の植物を調べ始める。

「オアフで見たことのなかった花がこんなに! コンフリやローズマリーはフォスター植物園にもあるけど、気候が合わなくて、いじけてる感じなの。でも、ここのはすごく生き生きとしてる」

 しばらくして、大きな木製のトレーを手に女性が戻ってきた。席を離れて夢中で植物を見ているセレスティンに、優しい視線を向ける。

 トレーから白い陶器のポットをテーブルに移し、そろいのカップをとり上げる女性を、ルシアスは改めて観察した。

 シニョンにまとめられ、日差しにあたたかく輝く琥珀色の髪。品のよい顔立ちには、穏やかさと芯の強さがバランスされていると思った。落ち着いた深緑色の長いワンピースがよく似合っている。

 澄んだオレンジ色の茶がティーカップに注がれ、あまやかな香りがあたりに立つ。ポットを扱う女性の手の動きはなめらかで、機能的な美しさがあった。

 セレスティンは少し離れた低木のそばに膝を落とし、つやのある深緑の葉にとまった蝶を見ている。黒地に輝くエメラルドグリーンの模様をつけたアオスジアゲハは、呼吸をするようにゆっくりと羽を動かした。

 やがて蝶が舞い上がり、吸いつけられるように見上げる。蝶とセレスティンの姿を目で追っていたルシアスは、庭の奥にある一群の薔薇に気づいた。

 ハワイで薔薇か。もっとも、ここなら平均気温も平地よりかなり低い。温帯の植物を育てるのは、それほど難しくはないのかもしれない。

 考えながら見回すうちに、何かが感覚に触れる。デイトレードで数字の背後にあるパターンを追っている時にも似た――。

 イギリスや日本式庭園のような、人工的な造園ではない。だが、一見何気なく植えられた庭の植物やさまざまな要素の背後に、明らかな一つのパターンがあり、調和された秩序がある。そしてその目に見えないパターンが、空間の質に影響を与えている。

 女性に気づかれないようにポケットからコンパスをとり出し、方角を確かめる。要素の配置パターンを分析してみるが、ルシアスの知る西洋魔術のそれとは重ならない。

 この庭の空気には、言葉にし難い生命感がある。独特な密度の濃さは、魔術の儀式で作り出される空間にも似ているが、教団で経験したそれに比べて遥かに有機的だった。

 空間の質に敏感なセレスティンがこの特殊さに気づいていないのは、植物や虫に夢中になっているせいだろう。

 外とは明らかに異なる空間が、まるで透明なエネルギーのドームのように敷地全体を上空まで覆っている。

 空を見上げているルシアスに、女性が声をかけた。

「何をごらんになっているの?」

「いや――ここでは驚くほど空気が澄んでいる。吹く風も平地と同じ貿易風[トレードウィンド]のはずなのに、まったく違って感じられる」

「高度が上がると、肌に当たる風の感じもずいぶん変わりますわね」

 カップの茶を口に運ぶ。口の中に花とハーブの質が広がる――単なる「香り」ではなく、植物そのものの「手触り」が体に染み込む気がした。

「どんな仕事をされているか、訊いても構いませんか」

「今はここに篭って、本を書いていますわ。子供向けの物語ですけれど。ニューヨークの出版社に勤めている知人のおかげで、書きたいものをこつこつ書かせてもらっています」

「『今は』と言われましたが、以前は何か別のことを?」

「オアフに移って来るまでは、ユング派の心理分析家をしていました」

「ユング派の――」

「あなたも心理関係のお仕事?」

「いや――素人の横好きで、興味のある本を漁っているだけです」

「ユングのどんなところに興味をお持ち?」

「元型とか、象徴論のあたりですね」

 女性がうなずく。

「――うっかりしていたけれど、お名前を聞いてなかったわ」

「――ルシアス」

「私はマリーです。あの娘[こ]は?」

「セレスティン」

 マリーはセレスティンの名を小さく繰り返し、目を細めた。

「ロマンチックな名前ね。若く見えるけど、きっと大学生でしょう。それにしても、植物が好きなのね」

 マリーの視線や声には暖かく包み込むような質があり、この女性と向かい合うのは心地よいとルシアスは思った。

 自分が彼女のことを観察しているのと同じように、彼女の方でも興味をもってこちらを見ているのも感じられた。

 人は自分と同じ「匂い」のするものを本能的にかぎ分ける……。

 だがこれ以上詮索する前に、テロンがどう思うかを知りたいと思った。

 携帯電話が鳴る。

 このタイミング――誰なのかを確かめるまでもない。

「お前か――何をしているかだと? 茶を飲んでる 山の上で……手がかり? ああ……だが……おい 待て! 物事には手順というものが――」

 いつの間にか戻ってきていたセレスティンが、傍でくすくす笑っている。

「テロンでしょ?」

 そう言っていたずらっぽい笑顔を向ける。大概の人間には一顧もくれないルシアスが、テロンにだけはいいように振り回されるのが面白いらしい。

 あきらめてやりとりを中断すると、マリーに声をかけた。

「申し訳ないが、もう一人客が加わってもかまわないだろうか?」

「お二人の友達? それならかまいませんわ」

 ルシアスは場所のGPS座標をテロンに伝え、手短に道のりを説明すると電話を切った。

 セレスティンが両手で支えたカップの湯気を吸い込み、うっとりした顔をする。

「このお茶、欲しいな。どこで買えるのかな」

「これは私が自分でブレンドしたものなの。有機栽培のハーブと花に、植物の精油を少し加えてあるの。気に入ったなら、帰る時に持たせてあげるわ」

 マリーの言葉に、セレスティンはうれしそうにうなずいた。

 しばらくして、何かに耳を傾ける様子をする。彼女の聴覚は鋭く、通常の人間の聴覚域を多分少し超えていた。

「テロンの車の音がする。道の入り口まで迎えに行ってくるね」

 あの手荒い画策にもかかわらず、それが悪意からではなく、ルシアスに自分自身を見つけさせるための乱暴な友情の表現だったと理解して、セレスティンはテロンとごく自然にうち解けていた。テロンの方は彼女を「小娘」と呼んで、まったくの子供扱いをしているが。

 木立の目隠しの向こうから人の気配が近づく。

 門から庭に足を踏み入れたテロンが、探るようにあたりを見回す。すでに特殊な空間の質に気づいたのだろう。追加のカップを手にテーブルに戻ってきたマリーに視線を据える。

 マリーはこのぶしつけな客に動じる様子もない。テロンの射貫くような視線を受け止め、落ち着いた表情で見つめ返す。

 不意に何かを認めたかのように、笑顔になる。

「どうぞお座りになって。ちょうど今朝焼いたばかりのフルーツのタルトがあるから、出してくるわ」

 セレスティンは手伝うと言って、マリーの後に従った。

 二人が家に入ってしまうのを待ち、テロンが耳打ちする。

「おい 魚はでかいぞ」

「では、お前も認めるんだな 彼女が『実践者』で、それも相当な力量の持ち主だと」

「その辺で魔女などと自称してる軽量級のやつらとは比べ物にならん――だがその分、動かすのは難しいぞ」

「ふむ――」

「二人とも難しい顔をしてるわ」

 いつの間にか戻ってきたマリーが、宝石細工のように色とりどりの果物ののったタルトをテーブルに置いた。それを手際よく切り分けて、セレスティンがもってきた取り皿にのせる。

 セレスティンは自分の皿とフォークを手に、テロンの隣に座った。

「テロンてさ、何しに来たの?」

「こいつが『山の上でお茶に招かれてる』とかわけのわからんことを言うから、状況を確かめにだ」

 そんな言葉をどこまで信じたのかわからないが、セレスティンはタルトを頬張り、満足そうな顔をした。

 マリーの表情は穏やかだが、静かにこちらを観察しているのがわかる。

「お庭を見て回ってもいい?」

 2切れ目のタルトを食べ、茶を飲み終わったセレスティンにマリーがうなずき、庭の一方を手で示した。

「こちらからぐるりと回って行ってごらんなさい。全部見つけられれば58種、花が数えられるわ」

 セレスティンが身軽に席を立ち、言われた方に歩いていくのを見守ってから、マリーがさりげなく言葉をかけた。

「何か探し物をしているのかしら?」

 ルシアスとテロンが何かの意図をもって訪れてきたことは、もちろん彼女の方でも気づいている。

 相手の出方を確かめながら、徐々に話を進めていくべきか――一瞬考え、よけいな工作は、目の前にいるこの女性には意味がないとルシアスは判断した。

「――よければ少し時間をもらえませんか 夜にでも」

「今ではない方がいいのね」

 庭の向こうでムクゲの木を見上げているセレスティンにルシアスが視線を走らせ、察したようにマリーがうなずく。

「それなら、明日の夜にでも戻っていらして」

 マリーはゆったりした仕草で二人のカップに茶を注ぎ足した。

 地に足のついた存在感は穏やかだが、根の生えたような安定感があり、少々のことには動じない。そして自分の観察力と判断力に自信をもっているのもわかる。

 確かに、この女性を動かすのは一筋縄ではないかもしれない。

 

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