8. 風は遊び

 

 夕食の後、テロンは一足先に帰っていった。先にといっても夜の11時を回っていたけれど。

「ルシアス 時間も遅いし、泊まっていったらどうかしら? セレスティンもよく泊まっていくのよ」

 飲み物をカモミールのお茶に替えながらマリーが言った。

「余分の部屋があるから、二人一緒でも、別々でも大丈夫よ」

 断る理由が見つからなかった様子で、ルシアスはマリーの提案を受け入れた。

 部屋をしつらえに二階に上がって行くマリーを、ルシアスが階段のところで引き止める。短く言葉を交わし、マリーがうなずいた。

 ソファにもたれて眠そうにしているセレスティンに、自分はここでもう少し本を読んでいるから、先にやすむようにとルシアスは言った。

 子供扱いされているようで抗議したい気もしたけれど、眠いのは本当だったので、そのまま二階に上がる。

 セレスティンの隣の部屋をルシアスのために整え終わり、マリーが出てきた。

「今晩は冷えるから、温かくして寝るのよ。寒かったら、オイルヒーターをつけてね」

 母親のように声をかけて、降りて行く。

 パジャマに着替えてベッドにもぐりこむと、柔らかいフランネルのシーツが気持ちいい。

 ルシアスのことを思う。

 初めて彼の寝室で眠った時に見た「夢」……。

 今でも、「見てはいけないもの」を見てしまったような感覚があった。彼が自分にも、他の誰にも見せたくないと思っていること――彼は今でもあの夢を見るのだろうか。そしてだから、一人でしか眠らないのか――

 

 小鳥の声に目が覚める。凛として愛らしい歌声は、メジロ[ジャパニーズ・ホワイト・アイ]だ。

 20世紀のはじめにハワイに移入された鳥だと環境学の授業で習った。目の回りに白いくまどりをつけたオリーブグリーンの小鳥は、マリーの庭でよく姿を見る。

 山の上の朝は肌寒くて、毛布とフランネルに包まれた寝床の温かさが心地いい。ベッドを出るのがちょっと惜しかったけど、思い切って起き上がる。

 顔を洗って、パジャマのまま廊下に出ると、ルシアスの部屋のドアが少し開いていた。

(もう起きてるのかな)

 そう考えた時、内側から風が吹き抜けてドアを押し開ける。針葉樹の葉のような、微かに青い芳香性の香りがする。

 三分の一ほど開いたドアからのぞくと、ルシアスは窓の縁に頬杖をついて、考え事をするように外を見ていた。

 こちらの気配に気づいて振り向くと、ほっとするような穏やかな表情で、「入ってこい」と仕草で示す。

 隣に並んで、開け放たれた窓から外を見る。肩を抱かれると、さっきの風と同じ匂いがした。

 木立の向こう、遠く下の方にホノルルの街並みがあり、その先に海が見える。ここから見る海はずいぶん遠くて、少し靄[もや]がかかっていた。

 ドアを押し開けるほどの風は窓から吹き込んでいると思ったのに、風は静かだ。さっきのはどこから来たのだろう。

「眠れたか」

「うん。ここに泊まると、すごくよく眠れるの。普段見ないような夢も見るし」

「夢?」

「映画みたいに色も音もすごく鮮明で、物語みたいにたどっていける筋があるの。でも目が覚めると、内容は覚えてないんだけど――」

 階下からパンの焼ける甘い匂いが漂ってくる。セレスティンの注意がそちらに向くのを感じたらしく、ルシアスは笑ってセレスティンの髪にキスをしてから、腕を離した。

 小さな風がセレスティンの髪をなぶって吹き抜ける。それはクチナシの花のような香りを放った。思わず、どこから来たのか嗅ぎとろうとする。

 香り――光の粒子――

 気をとられているセレスティンにルシアスが言った。

「着替えなくていいのか」

「あ うん――」

 慌てて自分の部屋に戻りながら思い出す。

 そうだ――あの不思議な風。窓の閉まったアパートの部屋の中を嵐のように吹き荒れ、物を飛ばしガラスを割った。あれもどこから来たのか、わからないままだった。

 いろんなことがあり過ぎて、あの時のことについては深く考えないままでいた。

 自然の中で風に吹かれていると、風が「生きている」と思うことはよくある。けれどルシアスのまわりを行き交う風は、まるでそれ自身、意志があるかのように振る舞う。

 パジャマのタンクトップを頭から脱いだ時、ふっと何かが顔に触れた。

 目の前に淡い光の「顔」――輪郭ははっきりとせず、「顔」だったのかどうかわからない、でも「目」があって、それがこちらを見た。そして微かな笑いが宙に浮かぶ――チェシャ猫ってこんな感じ――次の瞬間、風がセレスティンの髪を散らして吹き抜けた。

 ベッドの上には、淡いピンクの小さな花びらが散らばっていた。

 窓は開いていない。

 

 庭のテーブルにつき、マリーの作ってくれた野菜のオムレツを口に運びながら、隣に座っているルシアスを見る。

 あの時テロンは「現象化」と言った。ルシアスのまわりの不思議な風は、何かの「現象化」?

「どうした?」

「――現象化って、どういう意味?」

「SFの話か。物体を二点間で移動させるのに、一度非物質化させて、それを再物質化させる技術とかいうのだろう」

 首を傾げるセレスティンに、マリーが言葉を足した。

「目に見えないものが見えるように形をとること、ぐらいに理解すればいいと思うわ」

「目に見えないものって?」

「あなたにとって『見える』というのは、どういうこと?」

「ええと――網膜に映って、それが神経を通して脳に伝わって、像として解釈されるってことかな」

「じゃあ、それ以外はすべて『目に見えない』ものになるわね」

「ん」

「夢や想像はどうかしら」

「――目では見てない、でも見えてる……」

「見えるということの定義は、思われているよりずっと曖昧なものなのよ 私たち自身の輪郭が、思われているよりずっと動的なのと同じようにね。

 そして世界は、私たちの普段の意識が思い込んでいるより、ずっと豊かな場所。

 考えて、セレスティン 神話や昔話に出てくる妖精やいろいろな存在たち――それは本当にただの想像の産物だったのかしら? だとしたら、どうして世界中のたくさんの文化が、そういった存在のことを当たり前のこととして語り続けてきたのかしら ほんの150年くらい前まで」

「そういったものが昔はいて、今はいなくなったっていうこと?」

「いなくなったのではなくて、私たちが『見る』ことを止めてしまっただけかもしれないわ。見ることの範囲をうんと狭めて、自分たちの小さな世界に閉じこもってしまったのかも。

 よく思うのよ――現代社会は、夢を神経生理学的な仕組みにしてしまうことで、一つの世界を丸ごと失ってしまったかもしれないって」

 マリーの言葉はセレスティンを魅了した。

 世界が変わったのではなくて、人間が視野を狭めて、見えるものの範囲を狭めてしまった。そう考えれば、視野を広げて、昔の人たちが見ていたのと同じように世界を見ることもできるようになるかも――。

 以前だったら、そんなのは子供っぽい考えだと思った。子供の時、毎晩、夜空を見上げて待ったけれど、何も起こりはしなかった。

 でも、ルシアスと出会ってから、繰り返し自分の感覚には確かな、でも理解を超える経験をしてきて、その可能性を受け入れるのはずっと容易だった。

 ついさっき「見た」不思議な風さえも――

 そう思った途端、小さなつむじ風が膝のナフキンを舞い上げた。

 いつもならびっくりして見るだけだが、さっきのことがあって、セレスティンは好奇心で一杯だった。何が起きているのかを見極めようと目を凝らした。

 ルシアスが何気なく指でテーブルを軽くノックした。それはまるで、いたずらをする子犬に「だめ」というような仕草。

 ナフキンがセレスティンの膝に落ちる。

 マリーがルシアスの顔を見た。

 ルシアスは視線を落としたまま表情を変えず、黙ってコーヒーに口をつけた。

 

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