9. 庭 I

 

 かすかな鳥の声で目が覚める。薄く目を開けて窓の方を見るが、外はまだ暗い。

 マリーの家に泊まって、こんなに朝早く目が覚めたことはなかった。

 早朝の涼しさのなか、毛布のぬくもりを味わっていると、鳥たちの声に、安定した強弱のリズムのある音が加わる。

 人の声だ。

 目を閉じて、聞きとろうとする。

 かろうじて声の輪郭がわかるほどで、言葉も聞き取れないけれど、芯を流れる力のようなものが伝わってくる。

 声はじきにリズムの収束を感じさせ、やがて止った。

 なんだろう。もっと聞いていたかったな。

 後に残された鳥たちの声をしばらく聞いて、それから起き上がった。

 

 クラスのない日だったので、1日をマリーの家で過ごす。

 庭仕事を手伝い、それから窓を開け放したリビングで本を読んでいると、キッチンからジャスミンの花の香りが流れて来る。

 お茶に添えて出されたのはバンレイシ科の果物……チェリモヤだ。

 薄緑の皮に包まれた果実が半分に切られ、白い果肉から黒い大きな種がのぞく。

 スプーンで種をのけて、果肉を口に含む。

 バンレイシ科の果物はちょっと気難しく、熟し具合を計るのが難しい。でもこれはマリーの「緑の指」が見分けたに違いない。カスタードアップルの英語名そのままに口の中でとろけて、甘い香りが鼻に抜ける。

 パイやタルトも好きだけど、こんな果物は同じくらいすてきなおやつだ。

 マリーがティーカップを手に、斜め隣に座った。

 彼女の優しい視線が自分を包む。

 マリーと時間を過ごし始めてから、視線という「もの」を感じることができると学んだ。

 声を出さなくても、視線で注意を引いたり、呼びかけることができる。普通の人たちが「もの」ではないふりをしている、たくさんの「もの」がある。

「セレスティン このあいだの質問、考えてみた?」

「うん……」

 一週間前、同じようにリビングに座ってお茶を飲んでいた時に訊ねられたこと。

「あなたにとって、人生の意味ってなに?」

 そんな質問をこれまで他の人間からされたことはない。でもそれはセレスティン自身、いつもどこか心の片隅にあった問いだった。

「……やりがいのある仕事に就いて、愛する人やいい友達を見つけて、健康で長生きする……っていうのが、普通、人生に望まれていることだと思う」

「それがあなたにとっても望みなの?」

「……そんなふうに恵まれた人生は幸せかもって思うけど、人生の意味っていうのとは違う気がする」

 言葉を止めて、自分の考えをたどる。

 これまでにも、マリーはセレスティンが感じたり考えていることについて質問することがあった。そしてそのやりとりの経験から、そういった質問をする時、マリーは決して「正解」を求めているのではないことをセレスティンは理解していた。

 学校では、教師の質問に対して即座に明確な答えが期待され、そして答えにはいつも正解と不正解、できのよいものと悪いものがある。

 だがマリーの質問には、自分自身にとって正直で確かな答えを見つけることが大切なのだ。

 大切な質問であるほど、ゆっくり考えることが大切。

「……それで じゃあ どんな人生には意味がないと感じるかって考えてみたの。

 人生がどんなに恵まれていても、自分のためにしか生きられなかったら、私は本当には幸せに感じられないって思う」

 

 マリーとの会話は、セレスティンがそれまでなんとなく感じたり思っていることに光を当て、整理したり、形にするきっかけを与えてくれた。

 でも自分の中に漠然とあった思いや考えを言葉にまとめるのは、意外と難しい。

 会話の間に時々セレスティンが黙り込んだりしても、マリーは静かに待った。

 二人を包む空間はそこにあって、言葉や仕草で無理に埋めなくてもいい。だからゆっくり、自分に忠実に言葉を探せばいい。

 

 セレスティンの言葉にマリーは耳を傾け、さらに質問をする。その質問は、彼女がセレスティンの言葉の一つ一つ、そこに込められている意味やニュアンスに注意を払い、その奥にある思いや考えに深い興味を持っていると感じさせた。
それは新しい経験だった。

 もう一人の人間が、自分の感じることや考えることに、こんなにも興味をもってくれる。

 時に、考えをまとめきれずもどかしそうにするセレスティンに、マリーは「一晩眠って、明日また」と言うこともあり、蔵書の中から一冊の本を渡すこともあった。

 渡される本は哲学や心理の本だったり、小説や物語であることもあった。

「自分は誰なのだろう」子供の頃、そう考えることがあった。そしていつか考えるのを止めてしまった。

 考えるのを止めてしまったのは、答えは見つからないと思ったから。そして誰もそんなことに興味はもってないと気づいたから。自分の両親も、友達も。

 でも、ここでは違う。

 いろんなことの背後には意味があって、その意味について考えることが、お茶を飲むように当たり前のことなのだ。

 

 静かだった窓の外から、風が吹き込んできた。涼やかな風はセレスティンの髪をふっと吹き上げた。

 そのいたずらっぽい仕草に顔を上げながら、ルシアスのことを思い出す。

 それだけのセレスティンの反応に満足したように、風は消えた。くるくる宙を舞う小さな植物の羽を残して。

 手のひらに受けると、カエデの種。淡い緑の羽が、はじの方だけほんのりピンクを帯びていて可愛らしい。

「ルシアスが あなたのことを考えてるのね」

「……どうしてわかるの?」

「今のはただの勘――でも セレスティン 自然の中にはたくさんの言葉があるわ。植物や、単なる自然現象と人間が呼ぶものにさえ。そしてそれは形や、色や、仕草[ジェスチャー]を通して語られるの」

「その言葉を学ぶことはできる?」

「ええ」

 マリーは微笑んだ。

 

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