3. 先触れの雨

 

 日の暮れかけた頃、セレスティンは宿に向かって車を走らせていた。島のレンタカー屋で借りた一番小さな車だが、宿と港を行き来するだけの足としては十分だ。

 お昼は船の上で食べたサンドイッチだけだったので、空腹だった。途中の道に、オープンテラスのあるレストランがあった。あそこに寄っていこう。

 一人で動き回るのには慣れていたし、ハワイの治安は、セレスティンの育ったロスアンジェルス周辺に比べても格段にいい。一人で夜道を動き回っても、これまでトラブルにあったことはない。

 レストラン裏の駐車場に車をとめる。

 車を降りると、夜の気配を含んだひんやりとした風が、夕方の空と、しっとりとした山肌の匂いを運んでくる。

 カウアイの気温はオアフの平地よりずっと寒暖の差があり、夕方は少し肌寒いくらいだ。

 店の建物の左手にあるテラス席にも人気[ひとけ]はなく、ただ一人、片隅のテーブルに白いシャツの男性の姿がある。

 セレスティンは、それが昼間、船の上でいっしょだったあのダイバーだと気づいた。

 男性は暗くなった空を見ながら、静かにマティーニグラスを傾けている。人を寄せつけない、孤独を好む雰囲気が彼を包んでいた。

 風が吹き、どこからか不思議な青い芳香性の香りがした。男性の髪が揺れ、青い透明な空気がその姿を包む。

 セレスティンはその不思議な感覚に、見とれるように立ち止まった。
確かに「風が見えた」と、そう思った。でも、思い直してみると、それが何なのかわからない……。

 急に後ろから車のエンジン音がして、ヘッドライトが地面を照らす。せわしなく車のドアが開き、大きなロックミュージックと抑制のきかない笑い声が聞こえてくる。

 振り向くと、数人の大柄な若者がスポーツカーから降りてきた。着ているものからして大学生。この島は、カリフォルニアの裕福な家の若者らの好みの休暇先になっている。

 大声でどなるように冗談を言いあったり、おかしな抑揚で笑い声をあげたりして、かなり酔っているのがわかる。

 セレスティンはそのまま店の建物に向かって歩きかけた。

 砂利をふむ音がして、ふいに目の前に誰かが立ちはだかる。

 若者の一人。酒臭い。

 左右、そして後ろにも人の気配。囲まれたのを感じる。

 しまりのない表情と妙な光の目つきは、酒だけではなく麻薬[ドラッグ]もやってるかもしれない。

「こんなとこに女の子が一人でいるなんて、どうしたの」

「夜の独り歩きは危ないぜ」

「そうそう、おれたちみたいのがいるからさ」

 一人がにやにやしながら言うと、他の男らが笑い出す。

「大丈夫です。夕食だけとったら、帰りますから」

 そう言って先へ行こうとするセレスティンを、男の大柄な体がさえぎる。フットボールでもやっていそうな、胸板の厚い屈強な体格。

 初めて身の危険を感じた。体の中にじわりとアドレナリンがにじみ、胸の鼓動が速くなる。

 店の方を見るが、誰も出てくる様子はない。

 声を出して誰かを呼ぼうかと思った瞬間、後ろから腕をつかまれた。
思わず強く振り払う。

 すぐに別の手に腕をつかまれ、振りほどこうとする間に別の手が前から伸びてくる。

 男どもはだらしない笑いを浮かべながら、ゲームを楽しむように、セレスティンの体に手を伸ばした。

 こんな不快なゲームにつきあってはいられない――アルコールと一緒に麻薬[ドラッグ]もやってるんだとしたら、いつ行動がエスカレートしないとも限らない。

 思いきって酔っ払いどもの輪を突破しようするが、壁のように阻まれる。

「元気いいな アメフトの試合でもしようっての」

 抵抗を面白がるような男らの笑いの嫌な響きに、自分の中で焦りと不安が入り交じるのを感じた。

どうしよう……

 突然、後ろから静かな声がした。

「こんなところにいたのか ――いつまで待たせるんだ」

 声の主は、思いがけない軽さで酔っ払いどもをすいと押しのけ、セレスティンの腕をつかんで輪の中からひっぱりだした。

「おい!」

 押しのけられた赤毛の大柄な男が怒声を上げる。

 静かな声の主が、赤毛の男を見る。軽やかな体の動きに不似合いな、鋭い鷹のような視線が若者の目を捕らえる。

 見据えられた獲物のように相手は動きを止めた。表情が固まり、それからかすかに身震いして目をそらした。

 顔からは怒りの表情は消え、別の本能的な反応――不安とも恐れとも見えるものが横切った。

「な……なんだよ、連れがいるなら、そういやあいいのに」

 男は自分の反応をごまかすように声を上げた。その声に弾かれたように、他の男らが同調する。

「女なんて、クラブに行けばいくらでもいるだろ」

「そうだそうだ、先にめし食っちまおうぜ」

 酔った男たちは、もつれる足をせわしなく動かしながら店の中に入って行った。

 自分の腕をつかんでいた手がすっと離される。

 あの男性だった。

 青灰色[ブルーグレー]の瞳、彫りの深い顔立ち。若者を見据えた視線の鋭さは、物静かな光に変わっていた。その視線もすぐにセレスティンの顔から外される。

 「こちらに来い」というように自分のテーブルをあごで示し、何も言わず目線でセレスティンを座らせた。

 お礼を言ったが、男性は返事もしなかった。まるで、たった今自分のしたことを認めもしない、そんな感じだった。

 ようやく店の中から出てきたウェイターに、男性が指で合図をし、食事のメニューをもってこさせる。

「あの……いっしょに食事をしてもいいんですか?」

「あいつらに知りあいだと思わせた手前、他のテーブルに放り出すわけにもいくまい」

 とりつきようのない言葉。酔っ払いどもの行動を見かねて助けはしたが、それ以上の関わりを持つ気はない、そう言っているようだ。

 運ばれてきた冷たいヴァージン・コラーダを口に含む。ココナツとパイナップル

 ジュースの甘味に、体の中のアドレナリンが引いていくようだ。

 緊張が解け、ふう、と息をつく。

 気分が落ち着くと、目の前に座っている男性のことが気になった。

 感謝を示したいけど、それは受けとってもらえないみたいだ。

 このちょっとぎこちない間を、どう過ごしたらいいんだろう。

 男性は黙って、ウェイターのもってきた2杯目のドライマティーニを飲んでいる。

 しばらくして、思い切って口を開いた。

「あの……どこから来られたのか、訊いてもいいですか」

「ホノルル」

 短い答え。普通ならその後につけ足されるだろう飾り言葉のようなものは、何も続かない。

 コラーダのグラスを手に、そっと相手の顔を見る。地元の人間にしては、日焼けもしていない。

 セレスティンもホノルルに住んでいたので、どの辺りか訊いてみたいと思ったが、ぶしつけに詮索をするのは止めにした。

 困っているところを助けてもらった人、それだけでいいや。

 食事の間中、男性は名乗りもしなければ、ほとんど言葉もなかった。ただグラスを口に運ぶにも、引き締まった身のこなしが印象的だった。

 地元の男性たちが着るアロハではなく、白い長袖のボタンダウンの腕を少しまくり上げた姿は、無造作なようで、その身のこなしと相まってとてもスマートに見えた。

 そうだ、軍関係の人かな、とも思った。

 ハワイにはたくさんのアメリカ軍基地がある。ホノルルのあるオアフ島にも海軍、空軍、海兵隊の施設があり、軍関係者の存在は珍しくもない。

 食事が終わってテーブルの上に置かれた勘定書に、セレスティンがバッグから財布を取り出そうとした時、男性は首を振って「不要」だと示した。

 理由もなくおごられるのは好きではないが、男性の静かな仕草には逆らえない何かがあった。

 財布をバックパックのポケットに戻そうとして、ポケットの中に入っていた本につっかえる。本をとり出してテーブルの上に置いた時、男性の目が本の表紙に止まる。

 ジャラルディン・ルミの詩集。

 相手が興味をもったのを確かに感じた。でも何も言葉は発せられなかった。
帰り際、車まで送ってくれた男性に声をかける。

「明日、また船で会えますか」

 男性は肩をすくめ、返事をしなかった。

 星空の下、駐車場を横切っていくその後ろ姿を、セレスティンは車のそばに立ったまま目で追いかけた。

 

 カウアイ島でいつも泊まるのは、南岸のポートアレン港から30分ほど離れたところにある、一軒家のB&B[ベッド&ブレックファースト]だ。

 大きな道路を外れて山道に入り、真っ暗な中、舗装されていない道をごとごとと走る。宿にたどり着き、母屋の窓から明かりが見えて、なんだかほっとする。

 ドアを開けると、リビングにオーナー夫婦の姿はなく、オスカーというちょっと太めの猫だけがソファにすわっていた。

 通りがかりにオスカーの耳や首をかいてやってから、自分の部屋に向かう。

 バスに水を張って機材を洗い、部屋のベランダ[ラナイ]に出てウェットスーツを干しながら、真っ暗な空を見上げる。

星だ――空いっぱいの星!

 セレスティンが住むホノルルのダウンタウンには、高層ビルが建ち並ぶ。夜でも空は都市の街明りに照らされ、見える星の数はがっかりするほど少ない。

 だがカウアイ島の夜には静かな闇が広がり、無数の星がくっきりと浮かびあがる。星々は闇の中から語りかけるように強く瞬く。

 セレスティンには時々、自分がこの地球[ほし]に生まれながらこの地球[ほし]のものではないと思われて仕方ない、孤独感とも切なさともつかないものに襲われることがあった。

 星空を見上げる時に感じる感覚は、その胸の痛さに限りなく似ていた。

 幼い時、庭に出て夜空を見ていたことがある。夜空を埋める星々を見上げながら、どこか遠い場所に独りで置き去りにされてしまったような悲しさを覚えた。

 「帰りたい」と思ったが、どこへなのかはわからなかった。ただそれが両親の家ではないことだけは確かだった。

 少し大きくなって、自分がこの世界のものではないという感覚は、つねに自分の深いところにある一種の孤独感とつながっていることに気づいた。

 ロスアンジェルス郊外の中産階級の家に生まれ、大きな不自由もなく育った。両親は普通に面倒を見てくれたし、遊び友達もたくさんいた。学校も楽しかった。

 だが「自分はここに属さない」という異質感は、いつも自分の背中にあった。自分はこの両親に属さないし、まわりの友人たちも――いい友達だけど――自分のことを理解はできない。

 SF小説を読むようになって、自分がどこか遠くの星から地球に置き去られ、どうやったら故郷に帰れるかを探している生き物だと想像することもあった。

 もちろん、それで「人間」としての姿を「本当の姿」に変えることができたわけでも、空から「迎えに行く」というメッセージがやってきたわけでもない。
それがまったくの子供らしい空想だということは、思春期に入る頃には自覚されていた……。

 そんなことをとりとめもなく思い出しながら、明日の準備を終え、ベッドにもぐり込む。

――明日は最後のダイビング日。あさってはホノルルに戻る。

 眠りに落ちる前、あの男性の横顔をちらりとだけ思い出した。

 

 早朝のまだ暗い時間、目覚まし時計の助けを借りてなんとか起き出す。シャワーを浴びて、リビングに準備されてあったデニッシュを頬ばり、ポットの熱いコーヒーを飲む。

 出かける準備をしながら暗い窓の外を見ると、ばらばらと音を立ててスコールが降り出した。

 「雨!」うれしさに思わずつぶやく。早朝の通り雨は幸運の先触れだ。それは虹を呼ぶ。

 島の南岸に向かって、人の背丈ほどのサトウキビ畑の間を車が抜ける頃には、雨足は遠のき、次第に辺りが明るくなっていった。朝の光に、濡れた葉の緑が鮮やかにきらめきだす。

 ポートアレンの港に着くと、期待していた通り、海に虹がかかっていた。

 車を降り、機材を降ろすのも忘れて高い空を見上げる。

 西の海に向けてかかる大きな虹は、七つの色のすべてが水彩画のように鮮やかで、その外側にもう一つ幻のような虹を伴っていた。

 だがあの男性の姿は船になかった。

 

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