4. 鳥と真珠

 

 夕方近くの飛行機で、カウアイ島からオアフ島に戻る。ホノルルのダウンタウンにある自分のアパートに着いたのは、暗くなってからだった。

 機材やウェットスーツを洗い、ベランダ[ラナイ]に干して、ハーブティーを入れ一息つく。

 晴れてはいても、ホノルルの夜空に見える星は都市の明かりに圧[お]され、明るさも数もカウアイ島とは比べようもない。

 おとついのことを思い出す。あの不思議な男性。

 酔っ払いどもにからまれたことも思い出したが、それは男性に助けてもらったことの背景でしかなかった。

 頬杖をついて考える。

 船の上で見た青い光の反射。レストランのテラスで男性を包むように見えた青い透明な空気……。

 自分が「見た」と感じたものを、視覚や視神経の仕組みで説明してしまおうとすれば、多分できる。生物学専攻のセレスティンは、人間の視覚というのが、それほど客観的なものではないのを知っていた。

 だがそれでも、これまで自分が経験したことのない「何か」が、あの男性の回りにあると感じる。

 あの人は何なのだろう。

 知りたい、と思った。

 自分の思いに気づき、それは奇妙で突拍子もないことのようにも思えた。
何を知りたいというんだろう。

 そしてこんなふうに、一人の「誰か」に興味をもって思い続けるのも、普段の自分の感じ方とかけ離れていた。

 男性のことを考えながら何日かを過ごし、さんざん迷ってから、オアフ島の北岸[ノースショア]にある、知り合いのダイブショップに電話した。

 オアフのダイブショップの大半は、外から訪れる観光客向けの商売をしていて、地元のダイバーに好んで使われるショップの数は多くない。

 カウアイの海が好きな人間なら、この季節のオアフで潜るのはノースショアしかない。

 ちょうどオーナーのジムが出る。

「よう、セレスティン。ダイビングの予約かい?」
「探してる人がいるの。もしかして、ジムの店のお客さんかもと思って。
 身長は180センチくらいで、アッシュブロンドの髪にブルーグレーの瞳。
 とびきり無口で……ん、もしかしたら軍関係の人かも。
 ショップに来る時はたぶん、長袖のシャツとか着てる」

 思い出すような間を置いて、ジムが机をとんとんとたたく。

「……あー なんかむちゃくちゃ愛想の悪いやつ? ダイブボートに乗るってのに、白い長袖なんか着て 話しかけてもろくに返事もしない」
「あ その人!」
「そいつがどうかしたのかい?」
「こないだカウアイで親切にしてもらったの。でも名前も何も訊いてなかったから――」
「へへ、なるほどね。ま、一応顧客情報なんで、名前とか電話番号とか教えるわけにはいかないけど――ちょっと待ってな」

 電話の向こうでパソコンのキーボードをたたきながら、ジムがからかうように言う。

「セレスティンは、年上の気難しそうな男が好みときたね」
「そんなんじゃないったら――」
「――来週の月曜日は暇かい?」

 ジムの意図を察して答える。

「うん」

 再びキーボードをたたく音がし、それからジムが電話で別の誰かと話す声。

「OK 一人分空きができたから、潜りに来な」
「ありがとう、ジム!」

 ジムのショップは、一度に六人しか客を船に乗せないのが売りで、いつも予約はかなり前からいっぱいになる。先客に予約の変更を頼み込んで、枠を空けてくれたに違いなかった。

 

 港に停められたダイブショップの船。ダイブマスターやクルーが、忙しげに乗り降りしながら準備をしている。

 デッキで、あの男性が自分の機材をタンクにセットしているのが目にはいる。

 ちょっと立ち止まって、呼吸を整えてから、自分の機材を担いでゆっくり船に近づく。

 顔なじみの若いダイブマスターが声をかける。

「ヘイ 今日はずいぶん早いね」

 その声に男性が視線をあげ、セレスティンに気づいたようで、わずかな驚きが表情を横切った。

「こんにちわ」
「君は――」
「ホノルルで大学に通ってるんです」

 ダイブポイントに向かう船の上で、セレスティンは男性に時々話しかけてみた。

 男性は訊かれたことには短く答え、質問の幾つかは返事なしに通り過ぎられた。

 結局ポイントに着くまでの半時間の間に、彼について知ることのできたことはほとんどなかった。

 ダイブマスターの点呼で、彼の名前が「ルシアス」ということだけはわかった。

 ポイントに着くと、いち早く準備を終えていたルシアスは、他のダイバーたちを尻目に一人で海の中に姿を消した。

 セレスティンはその姿を見送りながら、どうしてあの人だけはソロでダイブを許されているのかと、ダイブマスターに訊ねた。スポーツ・ダイビングでは、海の中の不測の事態に備え、水中では必ず二人のダイバーがペアになって動く決まりだ。

「ええ その……海軍上がりで、テクニカル・ダイビングの資格もあるっていうんで……それに確かに腕は抜群だし……」

 ダイブマスターはそう言葉を濁し、オーナーのジムには内緒にしてくれと耳打ちした。

「本当はまずいんだよ、客を一人で行かせるの。でも、あいつにじっと目を見て言われると、なんだかどうしても断れなくってさ……」

 

 ハレイワの街を、ダイブショップから一番近いバス停まで歩く。午後の暑い日差しの下、背負った機材が肩に重い。

 カウアイ島では他に交通手段がないので、仕方なくレンタカーを借りるが、バス路線のよく整備されたオアフでは車を持つ気にならない。車があればいいなと思うのは、こんな時くらいだ。

 しばらくバス停に立っていたセレスティンの前に、白いロードスターが止まる。運転しているのが誰か気づいて、開けられた窓からのぞき込む。

「バスを待ってるのか?」
「ええ」
「どこまで帰るんだ?」
「ダウンタウンまで」
「あきれたもんだ。機材を担いで、バスでダウンタウンとノースショアを往復か」

 ルシアスは乗れと身振りで示した。開けられたトランクにダイブバッグを入れ、車の助手席に乗り込む。

 席に体を落ち着けたセレスティンは、ふと思った。

 この車の中には、肌を包む不思議な密度がある――。

 彼の横顔を見る。そしてこの不思議な密度は彼の存在からくるのだと感じた。

 空間を満たす、ほとんど圧力のようにも感じられるもの。

 だが決して不快ではなく、何か自分の感覚を目覚めさせ、意識を澄まさせるような静謐さがある。

 なんだろう、これは――自分が感じているのは――。

 黙って何かを感じとろうとしているセレスティンの様子に、ルシアスが目をやる。

「どうした?」
「ん――」

 返事に詰まるセレスティンに、考え事でもしていたと思ったのだろう、ルシアスはそれ以上声をかけなかった。

 どう考えても、自分のプライバシーをとても大切にする人だ。その彼が車で送ってくれるという好意を捕らえて、これ以上追加の質問攻めにすることはしたくなかった。

 バッグからCDを取り出す。

「かけてもいいですか?」
「ああ」

 気のない様子でルシアスがうなずく。大学生の好きそうなポップミュージックでも聴かされると思ったのかもしれない。

 CDはルミの詩を英語で朗読したものだった。

 ジャラルディン・ルミは、13世紀ペルシャのイスラム神秘主義派[スフィ]の賢者で、セレスティンがとりわけ好きな詩人の一人だ。

 あのレストランで、ルミの詩集に彼の目が止まったのを覚えていて、出がけにバッグに入れてきた。

 朗読者のコールマン・バークスの静かな声が響いて、最初の一行が読まれる。ルシアスの顔に、詩の書き手を認めた表情が見えた。

人は海の鳥のように
魂の海から生まれ出た
海から生まれた鳥にとって
大地は最終の安らぎの場所ではない
否、我らは海の真珠だ
人はすべて海に住むもの
そうでなければ なぜ
波、また波がやって来るのだ?
……

 

 セレスティンのアパートの前で、ルシアスは車を停めた。ダイブバッグを受け取りながら彼の顔を見つめ、セレスティンは思いきって言った。

 だめでもともと、と思いながら。

「連絡先、聞いてもいいですか?」

 ルシアスは表情を変えず、とり出した薄い白の手帳から一枚の紙を抜き取り、番号を書き込んで差し出した。

 ロードスターのテールランプを見送りながら、その紙に目を落とした時、不思議な「香り」を感じた。

 自分の手を通してしみこんでくる、しっとりとした密度のある感触。

 それはセレスティンの深いところにある好奇心を刺激した。

 そしてそれ以上に、自分にとって馴染みのあるものに出会いながら、それが何であるかを思い出すことができないような、そんなもどかしさを感じさせた。

 

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