6. 風は空を思い出す

 

 セレスティンはジーンズのカプリパンツに、タンクトップ姿で助手席に乗り込んだ。すんなりと伸びた手足に軽やかな仕草は、いっそう彼女を「女性」というよりも少女のように見せた。

「どこへ?」

 セレスティンの声に、彼女の方を見ずに答える。

「どこへでも」

「どこへでも?」

「ああ 君の行きたいところなら」

 そう答えて、ルシアスはそんな言葉が自分の口から出たことにとまどい、自分をごまかすようにつけ加えた。

「ただしワイキキとハナウマ湾は除外してくれ。人混みは苦手だ」

「どこへでもって言ったくせに」

 心地よい抑揚の笑い声。

「じゃ 島の風側[ウィンドワード]の、どこか静かな海岸へ」

 言われるままに、島を南から北に横切り、ホノルルのダウンタウンと島の風側を結ぶルート61号線、パーリ・ハイウェイを飛ばす。大都市ホノルルの街並みが、コオラウ山脈の豊かな緑の山並みへと急速に移り変わっていく。

 ワイキキからは島の反対側に当たるカイルア・ビーチに、観光客の姿は見えなかった。平日の昼間のせいか、人気もまばらな砂浜は静かだ。

 おもむろに深い青から始まるカウアイ島の海と違い、オアフ島の遠浅の海は、明るい水色から徐々に深いコバルトブルーへと変化して、穏やかな美しさを見せる。

 白い砂の上に立って、ルシアスは少し離れた所を歩くセレスティンを見ていた。

 すらりとしているがやせ過ぎではない、柔らかな曲線のある体つき。肩より少し長いきれいな銅色[ブロンズ]の髪が、昼の日差しに映える。

 化粧っ気のない顔だちには幾分のあどけなさが残る。

 淡い赤褐色とも見えるきめの細かな肌は、先住民系の血でも混じっているのか――しかし、それにしてはまるで夏の空のような青い瞳――。

 それから、なぜ、自分はこの娘に会うことを自分に許したのかと考える。いや、会うのを選んだこと自体、ただ自らの不可思議な反応を分析したかったからだと自分に言い聞かせる。

 砂浜を歩き、何気ない会話を交わす。会話といっても、もっぱら娘の方で話しかけ、ルシアスはそれを聞いているだけだが。

 彼女の方は返事がないのを気にとめるでもなく、砂浜に落ちている貝殻や、クラゲのような透明な生物の断片などを時々しゃがんで調べながら、適当な間を置いて語りかける。

 時おり交えられる海の生物についての知識はしっかりしていて、単にダイビングをしながら身につけたとは思えない。自然について、並ならぬ観察力があるのも感じられた。

 しばらくしてルシアスは言った。

「大学での専攻は、海洋生物学か何かか?」

 初めてルシアスから発せられた問いに、セレスティンは驚きを交えて、うれしそうにふり向いた。

 まっすぐ顔を見られ、思わず視線を外しそこねる。

「専攻は普通の生物学なんです。海の生き物も好きだけど、陸の動物も、鳥も、植物も好きで、どれって選べなかったから」

「生き物が好き」そう言って笑顔を浮かべた時、彼女の存在が淡い光に包まれるように思った。

 しばらくして、時計を見ながらセレスティンが言った。

「パーリ・ハイウェイの途中にある崖の見晴らし台、行ったことありますか?」
ルシアスは首を振った。

 61号線をダウンタウンへ戻る道の途中、言われたように見晴らし台の標識を見つけて右に折れる。駐車エリアに車を停める間にセレスティンが言った。

「気をつけて。ここは風がものすごく強いから」

 言われる前から、ロードスターの軽めの車体に風圧が感じられる。ドアを押し開けるやいなや、激しい突風に見舞われた。

 目の前には、コオラウ山脈の緑の尾根が左右に大きく両腕を広げ、カネオヘ湾へ向かって伸びている。

 風の流れを見渡したルシアスは、谷の左右の山肌に沿って強い貿易風が吹き上げ、風のトンネルを形成しているのを見た。透明なエネルギーの渦巻きの中を、

 風の精[シルフ]たちが喜々として舞う。

 海を駆け渡ってきた貿易風[トレードウィンド]を体に受けながら思う。

 吹きやむことのない風と一緒にいる時だけ、自分でいることができる――。

 しばらくしてセレスティンが言った。

「訊いてもいいですか――どうしてハワイに来たのか」

 しばらく口をつぐんだ後、ルシアスは言った。

「行き先はどこでもよかった それまでいた場所以外なら どこでも――」

「それまでいた場所以外なら?」

「そうだな……ここが一番遠かったからかもしれない――自分のいた場所から」

 そう言ってしまってから、なぜ自分はこんなことを答えているのだろうと思った。

――何かが思い出される。そうだ。彼女のそばにいると、自分の意識のどこか深い部分が刺激されるのだ。

 何かしなければならないことがあったという気がする。そしてどこか帰らなければならない場所があった、そんなことを――。

 自分自身の反応にとまどう。

――帰りたいと思う場所など、この人生で一度も持ったことはない。いつも手放せる限りのものを手放し、不要なものをそぎ落として歩いてきたのだ。ふり返りもせず――。

 黙ってしまったルシアスの様子を確かめるように、抜ける空のように青い瞳が向けられるのを感じる。

 知らず知らず瞳を見つめ返す。

 ふいに時間が止まり、自分が立っている場所がどこだったのかがわからなくなる。確かなのは、ただ今ここにいるということだけ――。

 このまま時間が、すべての流れが止まってくれればいい――。

 ルシアスはそう心から思った。

 だがそれは望むべくもない。世界は動く――そしてこのまま静かに生きることは許されていないのを、自分はどこかで知っている。

 そうだ、だから誰とも、何とも関わりたくなかった――関わり始めたら、すべてが変わりだし、自分は独りであることが許されなくなる――。

 今も奥深くから自分を縛るその思いに気づき、かすかに首を振って目を閉じる。

「ルシアス――?」

 セレスティンの声に、我に返る。

 

 夕方前にセレスティンを送り届け、自分のコンドミニアムに戻る。

 ホノルル湾に面したこの建物は、240あるユニットの半分が短期滞在のビジネスマンや観光客に貸し出されていて、絶えず見知らぬ顔が出入りする。

 その中に自分を紛れ込ませれば、一軒家などに住むよりもはるかにプライバシーは守りやすかった。群衆の中の方が孤独は維持しやすい。

 夕食をとってなかったが空腹を感じず、冷やしたリースリングをグラスについだ。

 あの娘は「何」なのだろう。

 ガラス戸を開けてベランダ[ラナイ]に出る。手すりにもたれ、静かな夜の風に吹かれながら考える。

 自分のかぶっている隠れみのを通して、あの娘は自分を見ている。海岸で見せた、自然の要素に対する人並みでない観察力。それがおそらく彼女に「気になる何か」を気づかせたのだろう。

 彼女自身、自分が何を見ているのかもわかっていないはずだが……。

 初めて会った時から、彼女の存在を無視して通ることができなかった。

 目に見える世界の背後にあるつながりを感じとるよう鍛えられた、術師としてのルシアスの感覚は、この娘に強く惹きつけられていた。

彼女はいったい、自分にとって「何」なのだ ――?

 ため息をつく。悪い癖だ。

 何かについて考え始めたら、答えを見つけるまでそれを手放すことができない。

 だから、疑問を捨て、何も考えずに生きようと努めてきた――自分にすべての必要な答えを与えてくれるはずだった教団――「秩序を司る場所[オルド]」を去ることを選んだ時から。

 自分が思い描いていた「秩序」などというものは、たとえそれが選ばれた少数の「道を求める者」の間でさえも、人間の世界には求めるべくもない。

 あるのはただ、自分自身の内面との戦いを通して得られる、精神の均衡に過ぎないのだと悟った時から。

 断ち切るなら、今だ。

 そう自分につぶやく。

 独りで生き続けることを選ぶなら、これ以上の関係に踏み込む前に、あの娘もただ通りがかりの一人として手放さなければならない。

 彼女が誰か、何なのかなど、知りたくはない。

 知ったところで、それは自分の人生を込み入らせるだけ、またどこかで切り捨てなければならないしがらみが増えるだけ――。

 

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