更新が滞っていますが、背後での活動や執筆は進行中。

 仕事も忙しいのですが、創作の時間では実は「アルス・マギカ」より先に書いていたSFの方を書き進めています。

 そのため「アルス・マギカ」についてはちょっと横に置く形になっていますが、SFの方のラフをだいたい書き終わったら、「錬金術師の庭」を終わりまでのせます。

 Clip Studio Paintもぽちぽちですが学びつつ、挿し絵のスタイルを模索しています。仕事の傍らの作業のため、どうしても時間に限りがあるので、完璧主義を手放して、きっちりした絵ではなくマンガ風に寄せつつラフな感じで、というところに落ちてきています。

 SF作品の方は、これをできる限り速やかに形にすることが念願だったので、その意味では執筆時間中は充実した時間を過ごしているのですが、なにぶん長い……。

 

 サイトのデザインを新しいものに差し替え、メニューもろもろに手を入れました。

 現在、旧サイトから小説のテキストを移動し、とくにモバイル向けの読みやすさを考慮しながら、デザインを整える作業中です。

 メニューやプラグインをつなげ直しているので、リンクなど全部できていないところもありますが、じきに整います。

 次の小章はあらかた書き終わっているので、近く追加します。

 挿し絵などもこれから。

 

 何年も前に物語をまとめ終わって、そのままずっと手の中で温めていた小説をきちんと文章にして、オンライン小説の形で公開することにした。

 仕事が忙しくて、本当にやりたいのに、ずっと放りっぱなしになっているものが幾つもあり、創作活動として「書く」ということはその一つ。絵を描くというのがもう一つ。

 いろいろ思うことがあって、生活を整理して無駄を省き、そのための時間を作ることにした。

 今でも支えになっているのは、北米先住部族(ネイティブアメリカン)の師父[グランドファーザー]ヘェメヨースツ・ウルフ・ストームとそのパートナー、ホワイト・スワンといっしょに過ごした時間。

 二人が保持する器の中で、「書く」という作業のプロセスについて、そして「書く」ことを通して「伝える」ことの重要さについて、改めて思い出した。

 何はともあれ、久しぶりに戻ってみれば、創作活動として文章を書くのは、やはり純粋に楽しい。

 「ミレニアル世代をターゲットにリメイクすると、こういうふうに生まれ変わるのだなあ」という感じ。

 昔のオリジナル・キャストの雰囲気を残しながら、現代風にアレンジし直されたキャストもいい感じ。

 とくにカークひとりがヒーローだった昔のスタートレックに比べ、どちらかというと頭の足りない(そしてうっとおしい性格の)新カークの回りを、魅力的なキャラが固めている布陣は、なかなか水瓶座時代的と思う。

 しかしクールでかっこいいスポック、力いっぱいオタク天才少年的なチェコフなんかを見ていると、監督は日本のマンガかアニメの影響を受けてる人かなという気もする…。

 最近のハリウッドは結構そういう監督やプロデューサーは多くて、日本のマンガやアニメへのオマージュなどもあったりする。

 

 秋の終わり頃から久しぶりに集中的な書き物をしているが、その反動のように小説や物語が読みたくて、移動や仕事の合間を見ては、昔読んだ小説を読み直したり、好きな作家のまだ読んだことのなかった作品を読んだりしている。

 『Heretics of Dune』(邦訳『デューン 砂漠の異端者』)は、昔、翻訳で一度読んで、その時はアイディアは面白いと思ったが、全体としてあまり強い印象は残らなかった。

 しかし原書で読み直してみて、デューン・シリーズを一躍有名なものにしたハーバートの精密な描写力と、設定・物語作りの巧みさに改めてうたれた。

 小説の類としばらく遠ざかっていたこともあるのだろうが、読み始めると本を置くことができず、つい睡眠時間を削って読み通す。

 映画の『デューン・砂の惑星』が原作とはまったく「別物」になってしまっていることは、SFファンならよく知るところだ。

 デューンの物語構成の中で非常に重要な要素であるベネ・ゲセリットの教母たちも、映画の中では、ただおどろおどろしい存在としての印象しか与えなかった。しかしこの小説では、教母たちが主役的役割を果たし、生き生きと描かれている。

 デューン・シリーズが最初に発表された時には、人間と自然環境との関係についての科学的・哲学的考察をベースにした「初のエコロジカルSF」と呼ばれた。

 個人的には、血筋(遺伝)・潜在的能力と厳しい訓練の組み合わせによる通常の人間を超えた能力の発現、そして人類と個人の進化という、シリーズの背景を流れるもう一つのテーマが興味を引く。(ベネ・ゲセリットは、これを方法論として存在する母系的集団として設定されている。)

 こういうテーマを、SFのストーリーテリングを通して読むことの好きな人にはおすすめ。(ただしシリーズの始めの方の作品を読んでなくて、デューンの自然環境や歴史・文化の設定に馴染みがないと、ややとっつきが悪いかもしれない。)

 

 正月、小学生の姪っ子にせがまれて、ハリー・ポッターの映画を見につれていった。

 私にとっては、映画は基本的に国際線の飛行機の中で見るもので、自分では、よほど見たいものでなければ映画館には出向かない(年に1、2回)。

 ハリー・ポッターの前作も全部、飛行機の中で見た。

 姪っ子は「ハリー・ポッターは映画より本の方がいい」と言っていたのだが、この4作目は「面白かった」と満足そうだった。

 現代っ子をこういう物語形式の「思想」に触れさせておくのは、悪くないと思った。

 映画から見る限り、ポッターのシリーズは、魔術の道程の基本を一応押さえている。

・知性を磨き、意志の力を鍛え、豊かな感情生活を送ることの大切さ
・真に優れた魔術師は、勇気と高潔な人格を備えていること
・魂のイニシエーションには、火の要素と水の要素が関わること(アルケミーの原理)

……など。

 ある意味すごいと思うのは、人間の魂の深い部分の暗闇に触れる内容を、エンターテインメントな読み物の一部として「子供向け」の物語の中に含めてしまっている点だ。

 個人的に惜しまれるのは、描写の中で、魔法(魔女術、witchcraft)と魔術(magic)が混ぜられて、実際に魔術の道程を歩みたいと思う人に誤解や混乱を招きそうな点ぐらいか。

 魔術とは、外の世界を鏡として自己の内面を変容させ、その結果として外の世界に対する制御力を身につける道程。

 『ハリー・ポッター』シリーズは、単なる空想物語でもなく、また実際の魔法や魔術の道程の記述でもない。それは魔法と魔術の道程の知識をベースに、著者の豊かな創造力によって書き上げられた物語だ。

 

 ディオン・フォーチュン、翻訳の推敲作業中。

「儀式魔術とは、精妙な領域[エネルギー・レベル]における治療学であると定義できる。もちろん、衛生学の知識なしに治療を行うことは健全でない。そしてこの領域での衛生学は、倫理なのだ。多くの秘教の実践者により犯される過ちは、パワフルな変化を引き起こす魔術的行動を、倫理的正しさという衛生学を併用することなく行おうとすることだ。」 

 スタージョンの『人間以上』を読んだのは中学の時。それは物語を通して、人間の種としての進化の可能性と方向性、そしてその中で道徳とエトスの果たす役割について、十代の心にしっかりと刻み込んだ。その意味では自分の人生観に影響を与えた本。

 改めて原書で読み直してみると、舌足らずなところ、説教っぽくて冗長なところもあるが、それでもやはり名作だ。

 昔読んだ時にはもちろん、心理療法についての知識も経験もなかったので気づかなかった。今改めて読んで、半世紀前に書かれたこの本の中で、スタージョンがすでに、心理分析や心理療法的な手法で感情や記憶のブロックを解くことが、人間の能力や可能性をフルに発揮するために重要だと考えていたのに驚かされる。

 もちろん優れたSF作家というのは、いつも来る時代の予言者ではあるのだが。

 「人間の種としての進化は、道徳性を核とすることなしにはあり得ない」というメッセージを、こんなにもストレートに(ほとんど説教調で)語り上げることを許し、しかもそんな作品に多くの賞を与えた当時のSF界もすばらしかったと思う。

 SFの中には、十代の頃には夢中で読んだが、今はもう読めないなと思うものもある。だがスタージョンは今でも好きな作家だ。

 『夢見る宝石』は、『人間以上』と並ぶスタージョンの代表作。

 『人間以上』を読んだのと同じ頃に探したが手に入らず、やがてSF小説そのものを読まなくなり、そのままになっていた。

 思い出して原書を手に入れて読んだが、久々に古典的名作のカテゴリーに入るSFを読んだと感じた。1950年に書かれた作品とはとても思えないが、時代を超えて残る古典とはそういうものだろう。

 十代の頃ではなく、人生経験を一通り積んだ今になって読むことができたのも、ある意味では幸運だった。今だからこそ、この作品をすみずみまで味わうことができたと思うから。

 「人間であるとはどういうことなのか、何が我々を人間たらしめるのか」という永遠不変のテーマを、最初から終わりまで一気に読ませる抜群におもしろいストーリーとして書き上げることのできたスタージョンは、ディーン・クンツの言う通り、何世紀を経ても読み継がれ続ける作家だと思う。

 

「エジプト人は知識について直接語ることをせず、
それを芸術や彫刻に組み込んで、
その効果が感情に働きかけるようにした」 
ジョン・アンソニー・ウェスト

 一般にはあまり区別されていないが、「魔術(Magic)」と「魔法(Witchcraft)」は別物。「魔術師(Magician)」と「魔女(Witch)」も全く別物(性別の違いだけではない)。 

 ディオン(ダイアンと日本では書かれる)・フォーチュンもW・E・ バトラーも指摘しているが、現代に残るもっとも典型的でわかりやすい魔術の典礼儀式はカトリックのミサ。

「魔術を実践できるためには、神の存在についての揺るぎない確信が必要だ」
W・E・バトラー(未発表の遺稿から)

「精神的な進化は、厳しく道徳律に従う者にのみ可能である。入門者が
道徳的真理と徳について十分に理解したと教師らが納得して初めて、
自然と科学の隠された神秘について学び始めることが許される……
しかしフリーメイソンにおいて特殊なのは、この道徳的真理と徳についての
レッスンが、教訓的な言葉よりも、おもに寓話と象徴を通して教えられることだ。」
J・S・Mワード『フリーメイソンの道徳的教義』

「エジプト文明は、原始的なものから段階的に発達したのではない。
それは遺産なのだ」
ジョン・アンソニー・ウェスト

 

 ヨーロッパに向かう飛行機の中で読んでる本『Aleister Crowley and Dion Fortune — The Logos of the Aeon and the Shakti of the Age』(アレイスター・クロウリーとディオン・フォーチュンの比較伝記) 

 アレックス・サムナーのディオン・フォーチュンの小説についての批評を読む(Journal of the Western Mystery Tradition)。

 よくまとまって、バランスのとれた分析だと思う。

 「フォーチュンの小説中では、イニシエーションや魔術の訓練を受けていない
普通の人間がパワフルな魔術を行うように描かれているが、これは何よりも
明らかに小説としての仕掛けである」 アレックス・サムナーA

 

 3年半ぶりにフィレンツェに戻る。

 何はともあれ、大好きなサンタ・マリア・デル・フィオーレ(花の大聖堂)に。

 昔フィレンツェに半年ほど滞在した時も、数えきれない時間をここで過ごした。

 幾世紀を経てなお壮麗なドゥオモ(大聖堂)の空間で時間を過ごしていると、失われたアルケミーの知恵を西欧に呼び戻すのに、メディチ家がどれほどの役割を果たしたかが、歴史の重みとともに思い出される。

 何時間でもここに座っていたい。

 

「エジプトは天の鏡」
(『ヘルメティカ』)

「プラトンは後回しでいい。先に『ヘルメティカ』を訳してくれ」 

コジモ・ディ・メディチ

 そしてパリはエジプトの鏡。

 今回はパリでも調べもの。

 グラハム・ハンコックとロバート・ボーヴァルが指摘していた、パリの「魔都」度を確認。

 ルーブルの敷地のピラミッドは見事にオリオンの三つ星配置。

 中心のピラミッドから、カルーゼル凱旋門を通ってコンコルド広場のオベリスクまでの線は、ルクソール神殿の映し鏡。

 パリのノートルダム(Notre-Dame=我らが聖母)大聖堂が、イシス信仰につながるものであることも確認。

 無数のステンドグラスにまぎれて、月をいただく聖母の像。これは南ドイツの「黒い聖母」伝承のある教会を回った時にも見た。

 「Sáncta María, Máter Déi(聖なるマリア、神の母よ)…」という聖母への祈祷は、とても意味深い。