セレスティンはノーフォークパインの木立の中で、去年のクリスマスイヴにあの不思議な経験をした場所を探して腰を下ろした。木の幹にもたれると、背中が優しく支えられる。
ノーフォークパインはパイン[マツ]と呼ばれているけれど、スギの仲間だ。ノーフォーク島からオアフに移入された木で、どんなに風の強い場所でも、まっすぐに自分の形を保って育つ。
スギの葉の香りをかぎながら、「どうしたらもっと、目に見えない存在のことがわかるかな」と考える。
それからふと思った。
私は自分の望むことばかり考えてる。いつも、もっと知りたい、理解したい、経験したいって。
自然や植物たちのことを学ぶのだって、自分の興味のため。花に露をもらうのも、自分が何か新しいことを経験したいから。
植物たちは、何を望んでいるんだろう。
露を分けてくれた植物たちに、私の方から何かあげられるものはあるのかな。
でも植物たちには太陽があって、雨があって、空気も土あって、それだけでこの木みたいに強く、高く、美しくなれる。
何を手にしても足りない人間と違って、すべての必要なものを持ってるみたい……。
そう考えを巡らせていると、ふと、何かの気配を感じた。
心が反応して動きそうになるのを落ち着かせる。
あせらないで。落ち着いて。驚かしたりしないように……。
大切な人の言葉に耳を傾けるように、全身を静め、耳を澄ます。
さっきまで静かだった木立の中に風が渡る。
この感じは、知ってる……。
風は木立の中をくるりと吹き渡り、それからセレスティンの髪を吹き散らした。まるで生き物のようにセレスティンを包んでから、踊るようにさっと上に吹き去った。
その時、風の中にあの光の顔が見えたと思った。形はない、けれども、そこにいる。
風が木立の上の方を揺すり、スギの葉や枝が鳴って、その香りが降ってくる。
「ねえ アオカケスの羽をくれたのは、あなたなの?」
高いところから、ざわめきのような声が肌に触れる。それはたくさんの声のようで、それでいて一つの声に感じられた。連鎖する滝のように流れ、つながり、途切れることがない。
その声の響きを受けとめると、胸の中に答えが聞こえたと思った。
それぞれの風は、全体の一部。地球を包む大気の一部。
その全体が、人間などかすんでしまうほど大きな生命。
その大きな生命の小さな小さな部分が、ここで自分を見ている。くるくると小さな風の渦で、顔を作る。
気配が去り、あたりが静かになる。
自然は、生きている。
そして人間とは比べ物にならないほど大きい。人間は自然という一つの大きな生き物の、その細胞の一つですらない……。
しばらく木々の間から空を見上げていた。
夕食の後、マリーに話をした。
マリーはいつものように黙って耳を傾けていた。
それから本棚から1冊の本をとり出し、ランタンをとり出して新しいろうそくを入れ、セレスティンに手渡した。
小さく厚い本は、自然についての祈りや詩を集めたものだった。ルミやヘッセやホイットマン、ナンシー・ウッドといったセレスティンも好きな詩人たちや、アメリカの先住部族、世界のいろいろな伝統の祈りや詠唱が集められていた。
「木のところに戻って、選んだページを声にして読んであげなさい。これは1時間を測るろうそくだから、それが消える前に帰ってくるのよ」
庭に出ると、日が落ちた後の涼しい風が肌に当たる。
風をもう、ただの自然現象、ただの大気の動きなんて思うことはできない。風は生き物だ。自分の肌に触れるのは、その膨大な生き物の、その衣のすそ。
庭を通って家の北側へ回ると、リビングからもれる明りももう届かない。足の感覚を頼りに真っ暗な中を歩き、木立に足を踏み入れる。
肌を包む夜の空気だけでなく、あたりに何かが満ちている感じがする。
持ち物を地面の上に置く。
ガラスでできたランプのほやを外し、マッチを擦ってろうそくに火をつけ、ほやをはめ直す。
自分のいる場所だけがほんのりと照らされる。人工の明りと違って、なんて優しい光。
本をめくっていて気がついたのは、詩や祈りはどれも自然について語っているのではなくて、自然に向って語りかけているのだった。
やがてチヌーク族の祈りを見つけ、声に出して読み始める。
我らは呼びかける
大地よ、我が故郷なる惑星[ほし]
その美しき深さと遙かなる高さ
その活力と生命の豊かさよ
我らはこう願う
我らを導きたまえ、道を示したまえ
……
我らは呼びかける
森よ、空に強く伸びる大いなる樹々
大地に根を、枝々に天をいだくもの
もみ、松、杉よ、我らはこう願う
我らを導きたまえ、道を示したまえ
……
そばには誰もいないはずの空間。暗闇が、ろうそくの柔らかな光で照らされているばかり。
一つ、また一つと詩や祈りを読むたびに、まわりに感じる気配が強くなる。
何かに取り囲まれているように感じる。自分の声に、たくさんの小さな耳が傾けられている。
ろうそくが短くなり、そんなに時間が経ったとは思えないのに、いつの間にか1時間近く経っていたことに気づく。
「あと一つね」
そう言って、最後にキオワ族の詩人の歌を読む。
私は青い空に舞う羽だ
草原を走る蒼い馬だ
水の中で回転し、輝く魚だ
子供の後をついてゆく影だ
夜の灯火[ともしび]だ……
それが終わった時、ろうそくが燃えつきてあたりが暗くなった。
暗闇に目をやったセレスティンは、姿のない無数の生き物に自分が囲まれているのを見た。そこにあるのは真っ暗な空間のはずなのに、わずかに光でかたどったような輪郭が見える。
ろうそくの光の残像? ううん、違う。
彼らを感じるために、じっとして、静かに呼吸した。
ありがとう
また読んでね
そう言っているような気がした。
やがて少しづつ気配が引き、目に見えない、けれども確かに生きているものたちが離れていく。あるものは地面の上を、あるものは宙を動いて。
セレスティンの胸は満たされていた。
ずっと昔になくしてしまって、どうやって見つけたらいいか悩んでいたものを、思いもかけずに見つけることができた、そんな感じだった。
リビングに戻ると、マリーが温かい飲み物を作って待っていた。話しかけようとするセレスティンに、マリーは唇に指を当てた。
カップを受けとって、その温かく甘酸っぱい液体を味わう。
ハイビスカスの酸っぱさと赤い色。エルダーベリーの花とラズベリー実の甘い香り。ブラックカラント[クロスグリ]の甘酸っぱさとわずかな苦味。そしてレーズンのこっくりとした甘みが、自分の中に染み込む。
それから自分の部屋に戻った。
その晩は夢の中で、ずっと小さな歌が聴こえていた気がする。