着信はマリーからだった。大学も休みだろうし、暇なら遊びに来ないかと電話の向こうの落ち着いた声が言った。
ダウンタウンまで車で迎えに行こうというのを「大丈夫」と断り、路線バスで途中まで上がって、停留所で降りたところを拾ってもらう。
マリーの家に来るのはまだ二度目なのに、もう幾度もこの庭を訪れているみたいだ。庭はそれ自体が生き物のように、親しみをもって自分を迎えてくれている気がした。
すいっと何かが前を横切り、思わず目で追う。それが軽やかに旋回して戻ってきた所へ、そっと近づく。エメラルドグリーンの胴体をした蜻蛉だった。葉の先にとまったギンヤンマは、大きな目をくるりと動かしこちらを見つめ返す。
オアフで蜻蛉を見るのは珍しい。こういった昆虫たちを見るためにだけでも、この庭に来たいと思った。
植物に囲まれたテーブルにお茶の用意がされる。まだ温かいスコーンを頬ばると、焼きたての小麦の甘い香り。添えられたジャムからは花とスパイスの味が口に広がり、マリーのブレンドしたお茶と同じくらい、セレスティンをうっとりさせた。
ゆったりした仕草で花の香りの立つお茶を飲みながら、マリーはセレスティンに話しかけた。
大学でどんなことを学んでいるか。普段は何をしているか。最近はどんな本を読んだか――。
何気ないセレスティンの答えの一つ一つに、マリーは興味をもって耳を傾けているようだった。
「そう言えば、もうクリスマスだけれど、お家には帰らないの?」
「うん――こっちの大学に入ってから、家には帰ってない」
そう答えた後で、また他の人たちにするのと同じように、どうしてなのかを説明しないといけないのかなと思った。
理由は別にない。でも普通の人たちには、それは通じないのだ。
「そう。他に行く所がないなら、うちに泊まりに来たらどうかしら」
「え――」
「ああ でもルシアスと出かけるわね、きっと」
「ううん ルシアスは『組織宗教としてのキリスト教が嫌いだから、クリスマスは無視する』って」
マリーが笑う。
「……言いたいことはわかるけれど、もう少し婉曲な言葉が選べないのかしら」
その場にいないルシアスをたしなめるような、でも温かい口調でマリーは言った。
彼女のそばにいるのは、なんともいえない心地よさがあった。どんなことでも話せそうな気がした。
「どっちにしろルシアスは人ごみが嫌いだから、人の多そうな日は外には出かけないの」
「いつでもいいのよ。私はここに一人こもって暮らしてるようなものだから、時間がある時に遊びに来てくれれば。大きな家だから部屋も幾つも空いているし」
「じゃ イヴの日にルシアスと来てもかまわない?」
「ええ もちろん。あの人はどうかしら ルシアスの友達の――」
「テロンなら呼べばいつでも来るよ。退役軍人て、そんなもんなのかな。二人ともずっと仕事もしないで平気そうなの」
「あら 仕事をしてるように見えないというなら、私も二人のことは言えないわ」
マリーがにこやかに言った。
「でもね、二人は、あなたが知らないところで仕事をしているのかもしれないわよ」
「ん――?」
「世界にはね、目に見える仕事と見えない仕事があるの。目に見えない側でやるべき仕事をしておけば、目に見える世界での生活は、なんとでもなるものなのよ」
思いがけなく謎めいたマリーの言葉は、セレスティンを考え込ませた。それはつかみようもない広がりを含んでいて、どう質問をしていいのかも考えつかなかった。
セレスティンの反応を気にするでもなく、マリーは庭に目をやる。あたりが今まで気づかなかった濃い草の匂いと花の匂いで満ちていた。平地では勢いよく吹く貿易風[トレードウィンド]が、ここではたわめられて、優しい風になる。
「今はわからなくても、そのうちわかるようになるわ」
当たり前のようにマリーは言った。
彼女はルシアスのことを「知っている」ように見えた。出会ったのは数日前のはずなのに、セレスティンよりずっと深いところで彼を理解していると感じられた。
マリーとルシアスをつないでいるのは、何だろう。
アパートに帰る途中、ルシアスに電話する。イヴにマリーの家で夕食をとる約束をしたと言ったが、ルシアスはとくに何も言わなかった。反対しないのは彼の同意の表現だ。
約束の日の午後、マリーの家に着く。
庭に足を踏み入れると、前に来た時と何か少し違う感じがした。即座にセレスティンを認めて親しく迎えるのではなく、なんだか反応がゆっくりとしている。まるで、深いところで物思いにふけっているような。
出てきたマリーに家の中に招かれ、夕食の準備を手伝ううちに、それも忘れていた。
ルシアスはリビングの本棚を興味深そうに眺め、マリーに断ると何冊かをとり出し読み出した。
夕方近くにテロンが来た。
夕食の前にワインを選ぶようにと貯蔵室[セラー]に呼ばれたテロンは、「見事なコレクション」に感心しながら、招かれるままに何本かを選ぶ。
マリーといると、不思議なことに、テロンもルシアスもなんだか「普通」に見えた。
外の世界では、どれほど隠しても隠しきれない二人の「違う感じ」が、ここではどこかに行ってしまう。
夕食の終わりは、温かなオレンジ色のパンプキン・パイに、生クリームと赤いクランベリーのジャムが添えられたデザートで締めくくり。
いつしか外は真っ暗で、部屋の中が少し肌寒くなっていた。
山の上の夜はオアフとは思えないぐらい気温が下がるのだと気づいたが、マリーが「暖炉に火を入れましょうか」と言ったのに、セレスティンはびっくりした。
「俺がやろう」
テロンが勝手知ったようにリビングの石造りの暖炉をのぞき、薪を足して火をおこし始める。
南カリフォルニアでは、中産階級の家にはどこでも見栄えのいいレンガ造りの暖炉があるけれど、それはみんな飾り物だ。実際に使っているのは見たことがなかった。電気で偽物の火がつくようになっているものさえあった。
テロンの手に操られて燃え出す炎を見つめる。薪がぱちぱちと音を弾かせ、飛び散る火の粉に混じって、つんと針葉樹の匂いがした。
「本物の暖炉って、いい匂い……」
「お前は能天気な南カリフォルニア育ちだったな。近寄り過ぎて火傷するなよ」
からかわれるのも気にせず、近づいて火の温かさを肌に受ける。
「テロンのヴァージニアの家にも暖炉があるんだよね?」
「当たり前だ」
「ルシアスもニューヨークにいた時、暖炉を使ってた?」
「そんな面倒くさいものは使わない」
「お前、暖炉のない家なんてのは、心臓[ハート]のない人間と同じだぞ」
「きさまの前近代的な価値観につき合っていられるか」
いつものように言葉でジャブを応酬し合いながら、二人はダイニングのテーブルに落ち着き、2本目のワインを開けた。
「テロンならマリーのコレクション、全部飲んじゃうかも」
「いいのよ またストックするだけ。それにワインはあの人に飲まれるのを喜んでるわ」
不思議な言い回し。
セレスティンはホットチョコレートのカップを渡され、リビングのソファに座った。隣に座ったマリーはテーブルの横に置いてあったバスケットを開け、糸に通されたビーズ束、赤色の糸やフェルト、はさみや針をとり出した。
それから別の布包みをほどく。中から現れたたくさんの鳥の羽。そこから白地に薄い茶色の横縞が刻まれたのを選び出す。長さは30センチ以上あって、大型の鳥の尾羽だ。
「それはどんな鳥?」
「野生の七面鳥よ。ニューヨークにいた頃、北部[アップステート]の森にあるコテージで時々過ごしたの。そのコテージのそばを、朝早くに群れが通りがかるのよ。
野生の七面鳥は、それは大きくて美しいの。大きな雄を先頭に、枯れ葉を踏んでゆったりと林の中を歩く様を初めて見た時は、息を呑んだわ」
マリーは赤いフェルトを切りとり、羽の付け根を包むように巻くと、赤い糸で手際よく縛って固定した。ビーズ束から幾つかの色を選んで抜き出し、膝の上に敷いた布に広げて、一つ一つのビーズをリズミカルに針で拾う。
色とりどりのビーズが、赤いフェルトの上に模様を描き始める。セレスティンは、吸いつけられるようにマリーの手もとを見つめた。
後ろではルシアスとテロンの声。国際情勢の話をしていると思ったら、いつの間にか「進化は純粋に適者生存律による機械的なものか、インテリジェント・デザイン的な方向性があるのか」なんて議論を交わしている。
ルシアスは口では認めないだろうけれど、二人とも互いに一目を起きながら、相手のことが気に入っているのがわかる。自分を隠す必要のない友達とルシアスがいっしょにいるのを見るのは、うれしかった。
今まで、こんなにほっとする気分になったことはなかったような気がした。自分が生まれ育った家にいた時でさえも――。
マリーの手がビーズ模様を紡ぎ出すのを見つめ、手の中のカップの温かさを感じながら、ふんわりとした幸せの感覚にひたる。
暖炉の薪が弾け、ひときわ強い松の樹液の香りが立つ。
それから、思い出した。
「ね 庭の感じが、このあいだ来た時と違ってると思ったんだけど」
「どんなふうに?」
「――具体的に何かがっていうんじゃないけど――全体の雰囲気かな」
「違いを言葉にできる?」
「このあいだより、静かなの。目に見えるところに変化はないんだけど……なんだか活動が静まって、でも、内側で何かに備えようとしてるみたいな感じがする」
マリーは黙って区切りがつくまで作業をすると、手を止めた。羽とビーズの乗った布をていねいな手つきで机の上に移す。
それから立ち上がった。
「ついていらっしゃい」
ドアの傍にかけてあった温かそうなストールをセレスティンにかぶせて、マリーは庭に出た。冷えた夜の空気の中を、彼女の後について行く。
リビングのカーテンの隙間から漏れるわずかな灯だけが、暗い庭にかかる。
家を北側に回り、マリーは暗い中でも迷わず足を進めて木立の奥に入っていく。
すぐにわずかな光も届かなくなり、前を行くマリーの気配と、草を踏む足下の感覚だけが頼りになる。
やがて足が止まる。
穏やかな暗闇。ひんやりとした匂い。
その暗闇の中に、微かな「動き」がある。
なんだろう。
目を凝らすが、何かが見えるわけでもない。
しばらく立っていたセレスティンは、足もとを手で触って確かめ、植物でおおわれた柔らかな地面の上に座った。目を閉じると自然に呼吸がゆっくりになる。
静けさの中で、自分の輪郭が暗闇の中に溶けていく。
まるで自然の胎内に入ったみたいに。
そこではすべてのものが静かに呼吸しながら、何かを夢見ている。
目を閉じている。なのに、闇の中に小さな光が瞬く。
ここにも、あそこにも……まるで空の星みたい。
その光を見ているうちに、空の星を見ている時と同じ、うずくような感覚が胸に触れた。
ずいぶん長く目を閉じていたような気も、わずかな間だったような気もする。
そっとマリーに呼ばれ、目を開けた。
いつの間にか隣に立っていたマリーに手をとられて、立ち上がる。セレスティンのジーンズについた草の葉を、マリーの手が優しくはらう。
少し頭がぽおっとした。
リビングに戻ると、そこにはさっきまでと同じ、温かで心地のいい空間があった。ルシアスが気づかうような視線を投げ、それに微笑んでうなずき返す。
マリーはセレスティンをソファに座らせ、温め直したホットチョコレートのカップをもたせた。熱く甘い液体を口の中でころがしながら、今、経験したことをふり返る。
自分が感じたことを伝えようと試みるが、はっきりとした形のない経験を言葉にするのは、意外に難しい作業だった。
マリーはビーズの作業を続けながら、何も言わず耳を傾けていた。
セレスティンの話が終ると、しばらくして言った。
「昨日が冬至だったのは知ってるわね」
「うん 一年の中で一番、夜が長い日」
「古い伝承では、冬至は光が生まれ変わる日なの」
「一年で一番、夜が長いのに?」
「そうよ。光の象徴である太陽は、冬至に生まれ、夏至に最盛期を迎え、それから少しづつ衰えていき、次の冬至にまた新しく生まれ変わって力を取り戻すと、昔の人は考えたの。
自然の中のすべてのものには一定の周期とリズムがあって、時の巡りとともに繰り返すと知っていたのね」
「ふうん」
マリーが口にしたイメージと、自分が暗闇の中で経験した感覚をつき合わせる。それは織り合わさって自然につながり、なんだか自分の中の世界が少し広がった気がした。
ルシアスとテロンはグラスを片手に、リラックスした様子で会話を交わしている。話が途切れたところで、テロンが横目でこちらを見た。
「どうやら小娘に家庭教師がついたみたいだぞ」