ミズナギドリが白い翼を広げて風を切り、青い海面を滑るようにかすめていく。
ハワイ諸島の中でも、もっとも古くに生まれたカウアイ島。
吹き止むことのない強い風は、季節により、また一日の時間によって方向を変えながら、雲を生み、雨を降らせる。島の北西岸では、こうして風と水に削られた古い地層が、ナパリと呼ばれる高く険しい崖を形作っていた。
絶えず変化する強い風と複雑な海流のせいで、この島の海は、ハワイの他の島々に比べて格段に気難しい。 それは島の南岸を囲むとりつきようもない高さの崖と、容赦ない風の質とともに、ルシアスの好みに合っていた。
船がダイブ・ポイントに着き、ガイド役のダイブマスターが声をかける。ウェットスーツを着込んだり、マスクやフィンの準備を始める他のダイバーらを尻目に、すでに装備を終えたルシアスは、スキューバのタンクを背に船の縁に腰かけた。
船長の視線を捕らえて「水面クリア」のサインを確認すると、マスクと口にくわえたレギュレータを片手で抑え、背中から海に落ちる。
体が冷たい水の圧力に包まれ、一瞬すべての空間感覚がリセットされる。
水面に顔を出し、船の方にOKの確認サインを出して、水底へと潜行を始めた。
海の中は静かだ。唯一耳に入るのは口にくわえたレギュレータの排気音だが、それも地上の世界の騒がしさに比べれば、限りなく沈黙に近い。
青い空間の向こうにぼんやりと大きな生き物が見え、やがてはっきりとしたサメの姿になる。灰色の流線型の体に、背びれと尾びれが美しい黒のグラデーションで彩られたグレーリーフシャーク。
サメはこちらにたいした興味も示さず、数メートル先をゆったりと泳ぎ去る。 他のダイバーたちのように熱帯性の色鮮やかな魚や珍しい魚を探して回ることに、興味はなかった。 何よりも人間世界から切り離され、青い無重力の空間に包まれて時間を過ごすことが、ルシアスにとってダイビングの目的だった。
しょせん自分は孤独を好む質[たち]で、込み入った人間関係に煩わされて生きるには向いていない。軍での仕事がある意味で肌に合っていたのも、個人の関係よりも組織の規律と秩序が支配する場所だったからだ。
それはわかっていたのだから、たとえ白魔術の教団[オルド]といえども、人間関係の錯綜する場所には足を踏み入れず、単独の術者としての生き方を守っておくべきだった――そんな思いが頭をかすめる。
だが、それもすべては向こう側に残してきたこと。 アメリカ本土から遠く離れたこの場所で、自分は今また独りだ。
ルシアスは考え事を頭から追い払い、瞑想する時のように静かに意識を澄ませて水と一体になり、時間が過ぎるにまかせた。
ダイブ・コンピュータのタイマーが、潜行から一時間が経ったことを知らせる。
減圧リミットまでの時間とエアの残量を確認し、船が係留されているポイントに向かって水底を移動する。他のダイバーたちはすでに上がっているだろう。
海底に打ち込まれた鋼鉄の杭が係留ポイントの目印だ。杭に結ばれ海面へと伸びるロープの先に、ブイが浮いている。20メートルの深さから水面を見上げ、ブイの先に青白く浮かぶ船底を視認する。
水面から五、六メートルほどの深さに、青いウェットスーツ姿の女性ダイバーが浮かんでいる。
腕のダイブ・コンピュータをチェックしているのは、体から窒素を抜くためのセイフティストップを終えようとしているのだろう。 大きなアオウミガメがそのそばを横切りながら、水面に向かって浮上していく。
女性――というより少女――が、すらりとした手足をゆっくりと伸ばし、カメの隣に並ぶ。大きなウミガメは逃げるでもなく、彼女が隣に並ぶのを許す。
逆光の中、水の青を背景にウミガメと少女の姿がシルエットになる。太陽の光を背に、ゆっくりと波に運ばれるその姿は、空を舞うように見えた。