島の風側[ウィンドワード]に出かけたあの日から、セレスティンは時々ルシアスと会って時間を過ごすようになった。
自分を目に見えないシールドで覆ってまわりの世界から切り離すような態度と、パーリの崖で見た、あの無防備な彼の姿にセレスティンは惹きつけられた。
仕事のことについて――というより私生活についても、彼はまったく触れなかったが、ボートで聞いた若いダイブマスターの言葉から、オアフにある海軍基地の関係者なのだろうと想像した。
ただ基地で働いているにしては、彼のスケジュールはまったく自由のようで、誘った時に都合が悪いと断られたことはなかった。
いっしょに出かけた時にも、ルシアスは相変わらず口数少なく、訊かれたことには短く答え、自分から話しかけることはほとんどなかった。どこかに出かける時も、行く先を決めるのはセレスティンの役。
あからさまに突き放すわけではない。だがいつも一定の距離を保って接しているのが感じられた。そしてそれでかまわなかった。
自分が彼の中に感じるもの、自分を惹きつけるそれが何なのかを知りたかった。この人はいった「誰」なのだろう、「何」なのだろう。
ある日、カフェでメニューを見ながら、セレスティンはそれまで何となく気づいていたことを質問にした。
「菜食主義[ベジタリアン]なの?」
「いや、単なる体調管理さ」
ルシアスはそう軽く受け流した。
でも、そう気がついて彼の行動を見ていると、あらゆる面で自分を管理し、抑制し、意志の力の下に置いている印象があった。まるで修行僧か何かみたいだとも思った。
それは彼が作り出す密度の高い不思議な空間や、彼のそばにいると感じる、高揚感と静けさの入り交じった感覚と関係があるのだろうか。
ルシアスの後を追いかけながら、自分が単に恋をしているとは思わなかった。刹那的な恋愛感情や憧れとは違う、何かその向こうにある「形」が自分を惹きつけている、そう思った。
時折ふと、ルシアスがあの表情を見せることがあった。
冬のオアフに降る激しい雨[スコール]の後、ハワイ独特の大きな水滴が陽の光を受けて空に描く、水彩画のように鮮やかな虹。
静かな夕方に、コオラウ山脈の山頂から森の湿った匂いを運んでくる風。
そんな自然の要素に感覚を満たされている時、隣にいるルシアスが、何かを思い出すような表情でいるのに気づくことがあった。そんな時セレスティンは何も言わず、ただ黙ってそばにいた。
ある日、無性に星が見たいと思った。
大学に入るのにハワイに移ってきてから、ずっと行きたかった場所があった。
「ハワイ島のマウナケアに登って、星が見たい」とセレスティンが言うと、ルシアスはいつものように「いつ」とだけ訊いた。
マウナケアで星を見ることについては前から調べてあって、島の雨側にあるヒロから、サドルロードを通って山頂へ続く山道に入る。
着きたいのは天文台のある山頂ではなく、中腹のハレポハクだ。しかしほとんどのレンタカー会社がサドルロード自体への乗り入れを禁止していて、使える会社は1つしかない。
うまく次の週に車を予約することができて、昼の便でハワイ島に向かった。ホノルルからは50分足らずの島駆け[アイランド・ホッピング]。
ヒロの小さな空港で車の受けとりを済ませ、町のダイナーで昼食をとる。
ハワイ島でも、カイルア・コナのある島の晴れ側なら、クジラを見たりイルカと泳ぐために何度も来たことがある。でも雨側にあるヒロの町は初めてだ。観光客でにぎわうコナに比べると、ずっと落ち着いている。
持ってきた水筒にダイナーのコーヒーを詰めてもらい、追加のサンドイッチをテイクアウトにして、マウナケアの中腹、ハレポハクを目指した。
天文台があるマウナケアの山頂は標高4200メートル。冬には雪が積もり、植物も地衣類くらいしか生えないツンドラ気候だと環境学のクラスで習った。
目指すハレポハクは標高2800メートル地点。それでも車の高度が上がるにつれて確実に空気が冷え、途中で持ってきた長袖を着込む。
夕方近くにハレポハクの駐車エリアに着いて、車を停めた。
ダウンジャケットを着て外に出たが、ロスアンジェルスの冬とは比べ物にならない強い寒さに、思わず身をすくめる。
空気は冷たく、薄く、息を吸い込むたびに肺にしみる。セレスティンはポケットに手を入れたまま、頭上に広がる空を見上げた。
極度に澄み切った薄い大気のおかげで、ここでは昼の空さえもが藍色を帯びている。それはいつもは何気なく見る空が、本当はそのまま暗い宇宙につながっているのだということを思い出させた。
水筒のまだ温かいコーヒーを二人で飲み、藍色の空を見上げながら、日が落ちるのを待つ。
気温は下がり、冷たく乾いた空気の中で吐く息が白く凍った。
「寒くない?」
セレスティンの声に、ルシアスが静かに首を振る。
「育ったのはニューヨークだ」
ニューヨークに行ったことはなかったが、「血の出るようなニューヨークの冬……」というという昔の歌の歌詞が印象にあった。
陽の光が去り、空の闇色が深まる。セレスティンはルシアスのそばに立って、ため息とともに見上げた。
薄く澄みわたった大気のせいで、ここでは星はもう瞬かない。星の光は空気のよどみに遮られることなく、まっすぐに地上に降る。闇を横切る銀河は、星の集まりではなく、まばゆい光の固まりだ。
自分のいる場所が、地上ではないような錯覚を覚える。息をのむような光の量に圧倒されながら、胸がうずいた。
星空を見る時に自分の胸を占める、自分がこの地球[ほし]に生まれながらこの地球[ほし]のものではないと思われて仕方ない、あの感覚。
だが一つだけ、以前と違うことがあった。
それは、自分は孤独だとは感じなかった。
ルシアスといると、自分は独りではない。
両親といる時にも埋めることのできなかった孤独感を、彼といる時には忘れられる。自分がこの世界には属さない「異質」な存在かもしれないという思いが、形をなくす。
ルシアスが低く静かな声でつぶやいた。
「星座を眺めるということにさえ、ささやかな地上の足場が要るのではなかろうか……」。
リルケの詩の一節。記憶を探ってその続きを思いだし、セレスティンは心の中で続けた。「なぜなら信頼はただ相手の信頼の中から生まれ、あらゆる施しは返礼にほかならない……」
ルシアスはそれ以上何も言わなかった。
でも、自分といることで、ルシアスの中の何かも少しだけ満たされているのかもしれないと、セレスティンは思った。だから自分がつきまとうのを許してくれるのだと。
時間で計ればわずか半年。けれど二人の間には、すでにはるかに長い時間があったような気がする。
それでもなおルシアスはセレスティンとの距離を変えようとはせず、彼の方から出かけようと誘うことも決してなかった。
彼と会って時間をすごせる限り、それで構わないとセレスティンは思っていた――。
* リルケの詩は富士川英郎訳「ベンヴェヌータに」から引用