本を読んでいたルシアスは、ノックの音に顔を上げた。ドアを開けると、セレスティンが立っていた。
彼女の表情に気づいたルシアスは、部屋に引き入れた。
ベッドの端に座らせる。
「どうした?」
セレスティンは起きたことをぽつりぽつりと話し、ルシアスは顔を曇らせた。
セレスティンに何をどんなふうに手引きするかについて、あえて関わらないことを選んだのは自分だ。
そしてマリーから「テロンに任せてもよいか」と訊ねられた時にも、反対はしなかった。
しかしテロンの進め方は早すぎる。たいして人生経験もないセレスティンを押して、扱い切れないほどの能力を引き出させているのではないか――。
ルシアスは唇を噛み、それから考え直した。
(……起きたことは、もう起きてしまったことだ。あの時こうしておけばよかったと、ふり返って後悔することは役に立たない)
マリーの手に導かれ、セレスティンは目に見えない世界と接触することを覚えた。その感覚は、海辺でセイレーンの声を聞きいて引き込まれそうになるほど開かれている。
そしてテロンは彼女の広がりほつれた輪郭を引き締め、不要なコンタクトに扉を閉めることを教えた。それは間違いなく必要だったことだ。
だが同時に、蓄えられた力と広がり強められた輪郭の両方を得ることで、彼女の他の生命に対する影響力が強まった。生き物を愛する彼女の性質を考えれば、それは自然なことですらある。
しかしそれを制御することをまだ学んでいない。
……今となっては、彼女の変化を止めることはできない。
卵から生まれた雛を卵の中に戻すことはできないように。学んだ知識を消すことはできないし、身についた力を閉じこめ直すこともできない。
できるのは、開かれ始めた能力を制御することを覚えさせる。そして制御を覚える唯一の方法は経験を通して。火傷をして初めて人は火の力に敬意を払い、賢明に扱うことを覚える――
ルシアスのそんな葛藤にかまわず、話を聞いてもらったセレスティンは、それで気分が晴れたようだった。ベッドに体を伸ばし、伸びをする。
それから、思い出したように訊いた。
「そうだ テロンて、もしかして泳げない?」
「あいつは海軍の特殊部隊上がりで、潜水オペレーションの専門家だ。軍のスキューバ・インストラクターの資格も持ってる」
「えー なんだ もう、テロンたらほんとに策謀家なんだから」
ふくれ面をするセレスティンの表情に、ルシアスはこの無邪気さが救いだと思った。
いや、それは単なる無邪気さだろうか。
それはむしろ、背負わされる荷の重さに応じて強くなる、魂の弾力性の表現なのではないだろうか。
ほどなくまたセレスティンは、テロンの後をついて回り始めた。
自分にはまだ学ばなければならないことがある。そして人から何かを学ぶための最良の方法はその相手と時間を過ごすことだと、本能的に知っているようだった。
ルシアスが、セレスティンがテロンと二人で時間を過ごすに任せてきたのには理由があった。
マリーやテロンのように自ら自己鍛錬の道を歩んで、優れた能力を身につけた人間と時間を過ごすこと。それはセレスティンのように若い人格にとって、成長のための最良の手段だ。
「自分」というものについて考え始める時期に、「人間」というものについての明確な視点を持つ相手と過ごすことは、心に計り知れない糧[かて]を与える。
その意味でマリー、そしてテロンは、セレスティンにとって最良の教師だとルシアスは考えていた。
時折ルシアスを悩ませる心配をよそに、セレスティンはテロンから教えられることを吸収し、所々で頭をぶつけることはあっても、それほど大きな失敗もせずにそれらを身につけていくようだった。
それはセレスティンの才能によるものだったか、それとも幸運によるものだったか。
お茶を飲みながらぽつりと発せられたルシアスの問いに、マリーは言葉を添えた。
「幸運を自らのまわりに呼び寄せるのも、才能の一つよ」
そうだといい。
「あの娘[こ]はルリヂサの花みたいだと思うことがあるわ」
それはどんな植物かと訊ねたルシアスに、マリーは微笑んだ。
ルシアスを招き、庭の片隅に咲いている花を指さす。五芒星の形をした花は青い。
「これはローマ時代から、人のハートを軽くして、勇気を与える花として知られているの。
薬草としては心臓や呼吸器の症状に用いるのだけれど、何より胸[ハート]を軽くする力がある。プリニウスからフランシス・ベーコンまで、人の胸から悲しみや憂鬱を追い払う花だと言い伝えているわ」
そう言われると、その青い花びらは透けるようで、しかし不思議な深さのある色だ。
「これは天上から地上に下りてきた青い花。空の娘[セレスティン]にぴったりでしょう」
それからマリーはその花を少し摘んでキッチンに戻り、青い花びらをアイスティーに散らしてルシアスにふるまった。
自分の目の前で成長し、少しずつ変化していくセレスティンを、幾重もの思いを込めてルシアスは見つめていた。
自分が彼女を大切に思う限り、彼女を心配する気持ちから自由にはなれないだろう。
自分がどれほど望んだとしても、道を前に進んでいく彼女を、すべての失敗から守ってやることはできない。
だが……自分は彼女を手の中に押し込めはしない。
彼女は伸び、広がるべきだ。望むままに、その能力のままに。