15. 現(うつつ)

 ルシアスと時間を過ごし、マリーの家に送ってもらったのは遅い時間だった。セレスティンはマリーに声をかけて、そのまま二階に上がった。
 シャワーを浴びて、マリーに教えられたように香りのある薬草をたき込め、ろうそくを灯してお祈りをする。
 それからベッドにもぐり込む。
 すぐに眠れると思ったけれど、いろいろな考えが頭に浮かんでくる。
 海辺の公園でうつらうつらしている間に見たのは、短い夢だったと思う。でもただの夢とも違った。
 あの経験には、何か自分を落ち着かなくさせるものがあった。
 でも、ルシアスやテロンには話すことはためらわれる。
 夢と二つ目の世界、そして人間の深い意識のつながりについては、これまでにずいぶん教わってきた。
 とりあえず自分で行動に注意しよう。とくにマリーの家の外では、意識を手放してぼうっとしたり、眠りに落ちたりしないように。
 これまで経験したことのない、一連の奇妙な経験。
 二つ目の世界であの青年に出会った。
 そしてそれ以来、何か目に見えないものが自分に近づいてこようとしている。
 それは多分、テロンが考えるようにあの青年かもしれないと思った。
 短い眠りの中で話しかけてきた声も、彼のものだった。
 でもなぜ、彼は自分なんかに興味を持つのだろう。
 声は言った。
 自分と彼の間には特別なつながりがあって、だから二つ目の世界で出会ったのだと。そして二人は遠い昔からの知り合いなのだと。
 でも、なにを理由に彼はそんなことを言うんだろう。
 確かに彼は、自分が森を出て初めて出会った人間だったけれど……それはただの偶然かもしれない。
 何より、彼のことは、人間としてあまり好きに感じられなかった。サラマンダーたちに対する彼の態度は、思い出すと今でも苛立ちを覚える。
 自分はルシアスに「いっしょにいたいし、そして自分が選んだ道を歩きたい。そのためなら、面倒なことに出くわしてもかまわない」と言った。
 それは本当の気持ちだ。引き返すことなんて考えられない。
 ただその面倒なことというのは、想像していたよりも複雑に入り組んで、自分の心の中に入り込んで来るようなものかもしれないと思い始めていた。
 自分にはまだ、それに向いあう知識も力もない。
 でも三人に心配をかけ続けるのもいやだし、子供のように守られているだけなのも嫌だ……。
 エステラがいてくれたら。彼女だったら、自分の手を引っぱって、何をしなければいけないかを教えてくれたと思った。
 少しずつ眠気が降りてくる。
 この安全な空間で……あの夢の物語の続きを見たいと思った。
 あの物語の中では、自分は別の世界にいて、何の憂いもない幸せで満たされている……。
 

 愛する男[ひと]と彼の教師が、庭で剣術の手合わせをしている。
 彼の顔つきはひどく真剣で、普段、自分に向けられるのとはまったく違う。引き締まった若い体がアガルタ風の太刀を自在に扱うさまは、とても格好よかった。
 剣術の教師は、彼が子供の頃に西方から来たところを、彼の父親に雇われた。
 まがりなりにも都市の治政に名を連ねる人間が、西方からの流れ者を雇って息子に剣術の訓練を与えるといったふるまいも、彼の家が長老たちからひんしゅくを買っている理由の一つだった。
 この都市は西と東の二つの帝国の間にあって、外交を通して独立と平和を保ってきた。近隣の他の都市との関係も、つねに豊かな資源と賢明で粘り強い交渉を通して解決された。
 それが都市の伝統でもあり、誇りでもあった。
 彼の父親は豪胆な人だった。交易をなりわいにしながら、他の商人たちが足を踏み入れない土地にも恐れず足を踏み入れた。息子もその父親に似ていた。
 初老にさしかかりつつある銀髪の剣の教師は、衰えをしらない強さと身のこなしで弟子に稽古をつけた。
 二人は汗を拭き、召使いが水差しから水を注いで差しだす。
「稽古だけで、よくここまでのことを身につけた。
 本当は実戦を経て一人前と言いたいところだが、この都市の平和はもう長い。
 剣の腕など、このまま役に立つ時など来なければよいな」
「いざという時の備えだけはして、そして使う必要がないのが一番と親父も言う」
「しかし……この都市には衛兵はいても軍隊はない。もしもまとまった軍勢に攻め込まれたら、お終いだ」
「『武器をとることが伝統に反するというなら、傭兵を雇って軍隊を組織すればよい』と親父は主張しているのだが、長老たちはみな頭が固くてな。これまで通りでよいの一点張りだ」
 愛する男[ひと]はこちらを見、それから続けた。
「また後で父上のいる時に話そう」
 教師がうなずいて去る。
 快活な笑顔がこちらを向く。さきほどまで太刀をふり回していた強い腕が背中に回される。
「腹がへったな。そろそろ食事の準備もできているだろう」
「私にはそういう話は聞かせててくれないのか」
「うん?」
「少し不穏なうわさを聞いた。ここからずっと北の都市のことだ」
「それはうわさ話だ。気にするな」
 こういう時の彼の表情は図り難い。何を考えているのか読ませない。自分とそれほど歳は離れていないのに、ずっと世知に長けている。
「お前の家は、ある面では進取の気風に富んでいるのに、ある面ではとても旧式だ。うちでは父と母の権限は対等で、どんなことでも父は母に相談する」
「お前の母上は書庫の娘で、都市一の知恵者だからなあ。
 お前もあと二、三十年すれば、ああいう落ち着きがでてくるのではないか」
 明るい笑い。これからの長い人生をともに歩んでいくことに何の疑いもない。
 いつか彼が「何かあったら、俺は自分の命に賭してもお前を守るぞ」と言った時、自分はそれを笑いとともに一蹴した。「この都市は平和を以て旨とする。そんな時は来るものか」と。

 目が覚める。
 夢は、今までの手放しに幸せなものと少し違っていた。
 愛する人といっしょにいられて、そのことに深い喜びを感じているのは同じだったけれど、手放しで世界を受けとめることのできた無邪気さは消えて、少しずつ外の世界が迫ってくる、そんな雰囲気があった。
 物語は相変わらず、はっきりと鮮明に五感に触れた。
 紫外線の強い明るい日差しの下の光景……谷から吹いてくる風の匂い……花の香り、スパイスの芳香……肌に触れる布の感触。
 そしてとても大切な、思い出したいことがあるという感覚……。