18. 生き物

「向こう側で、問題はないか?」
 コーヒーを片手にテロンが訊ねた。
「うん 大丈夫。違う通り道の感覚をつかんで、それに慣れるまでマリーが手を引いてくれたし、今はマリーの知り合いが少し離れてついてきてくれるから」
「そいつはどんなやつだ?」
「……マリーのコテージの裏の森で、熊を撃った人なの。だから最初は苦手だなって思ったけど……今でもほとんど口をきかないし、とっつきは悪いなと思うけど、でもすごく強い人なのがわかる」
「シャーマンか?」
「そういうのかな……ついてくる時は、だいたい狼の姿をしているよ。姿が消えて見えなくなることもある。でも、すごく強い存在感はそのまま残ってる」
「ふん シェイプシフターか」
「追跡する狼[ストーキング・ウルフ]っていう名前だって」
「そりゃいい」
 テロンが「気に入った」というように笑った。

 マリーから手引きを受けて訪れ始めた領域は、同じ二つ目の世界の一部であっても、まったく異る世界のように見えた。
 あらゆる要素が、環境も生き物も、互いに切り離し難くつながっていて、まるで空間そのものが生命に満たされている。
 それはセレスティンにとって居心地がよかったし、とりわけいろいろな小さな生き物たちの精[スピリット]と出会えることに、セレスティンはよろこび、興奮した。
 それも生き物の精たちは、セレスティンのことを知っているようだった。
 実際、彼らは知っていた。
 道路の真ん中で立ち止まっていて、セレスティンの手で安全な場所に移されたカエル。
 木の枝から地面に落ちたところを、拾われて葉に戻された蝶の幼虫。
 子供の手で地面の上に掘り出され、脱水状態になりかけたところを救われたミミズ。
 寒さで動きが鈍って壁から落ちたところを拾われ、動けるようになるまで温められたヤモリ[ゲッコー]。
 ハエトリグモ[ジャンピング スパイダー]の精は、セレスティンがハエトリグモを見つけると「ルーカス君」と呼びかけることを知っていた。
 ここではそれは、セレスティンより背の高いハエトリグモの姿だ。
「あなたは、私の部屋にいたハエトリグモなの?」
「個体ではない。すべての個体は自分の一部。
 お前が個々のハエトリグモと関わったすべての経験が、自分の中には記憶としてある」
 生物学者のルパート・シェルドレイクの形態形成場の理論を思い出した。
 一つの種に属するすべての個体の経験は、その種の全体の記憶に蓄積され、共有される。シェルドレイクはそれが個々の個体の形態や行動パターンに反映されると考えた。
「すべての個体の経験は記憶に蓄えられ、忘れられることはない。どんなに小さなことでも、どれほど前のことでも」
 それを聞いて、セレスティンは思わず考えた。自分は生き物たちを傷つけるようなこともして来なかっただろうか……。
「無知から来る、あるいは意図せずになされた人間の行為を決めつけはしない。しかしよい関係は感謝される」
「どうしたら生き物のスピリットと親しくなれるの?」
「小さなことでいいし、お前がやってきたことだ。
 他の生命から何かを与えられたら感謝する。
 他の生命が困っている時には助けを差し伸べる」
「うん」
 セレスティンは大きなハエトリグモの姿をしたスピリットの隣に座り、飽きずにその話を聞いた。
 多くの人間が注意を払うことなく、時には意味もなくその生命を奪おうとする小さな生き物。でもそのスピリットは賢く、その言葉は明晰だった。
 ストーキング・ウルフは少し離れたところにいて、セレスティンの様子を見るともなく見ていた。

 セレスティンがマリーの庭の草の上に腹ばいになって、何かを見ている。多分、虫か何かを見ているのだろうが、その表情は明るく輝いている。
「あいつ、このところ機嫌がいいな。足止めを食ってたのがそんなに不満だったのか」
 そちらに目をやりながら、テロンが言う。
「それだけではないようだ。
 部族の領域では、人間とそれ以外の生き物の区別が薄い。そこでいろいろな生き物と話ができて、それが楽しいらしい」
 穏やかな視線でルシアスはセレスティンを見つめた。
 そして「これでガブリエル・ジレの件は一段落であってくれればいい」と思った。