嫌な夢から覚めた後で、集中するのが難しいかもしれないと思ったけれど、意識は素早く二つ目の世界に着いた。
時間は午後のどこか。
背後にサラマンダーたちがいるのを確かめてから、前に目を向ける。森の向こうが明るい。
待ちきれない気持ちで速足に歩く。やがて森が途切れ、その先は開けて草原になっていた。森の縁で足を止める。
ここが境界になるのかな。ここを先に進むと、自分個人の意識の領域から外に出る?
門とか壁とか、ないんだ。
足を踏みだすと、何ということもなく森の外に出た。
個人の意識と外の領域は、切れ目なくつながっているってことなのかな。
目の前には背の高い草が続き、その向こうに丘が見える。
でも確かに景色の色や雰囲気が少し違う。
考えてみれば、森の中はセレスティンが見ている自然の世界だった。生命に満ちていて、優しい。
でも目の前に広がる世界は、なんとはない違和感がある。
空の表情が読めない。
ふり向いて、後ろにまだ馴染みの森があることを確かめる。大丈夫。
水があるのはどっちの方向だろう。
あの丘の上に登れば、あたりが見渡せるかな。
道はなく、高い草をかき分けて進む。
丘と見えたのは、植物の生えていない岩山だった。
小高い場所から見回すと、かなり向こうの方に平らで、光を反射している場所がある。
あれは……光が水に反射して光ってる!
目を凝らすと湖のよう。急いで岩山を降りる。
ときどき草の根に足をとられながら進んでいくと、薮にぶつかった。セレスティンの道を阻むように広がっている。
ノイバラみたいだけど、困ったな。枝には鋭いトゲがある。
薮のまわりを行ったり来たりしながら探すうちに、わずかに通れそうな隙を見つけ、そこに体を差し入れる。
トゲがシャツに引っかかり、腕や足をひっかいたけれど、気にしてはいられない。
サラマンダーたちは……と思ってふり向くと、薮の上を跳ねながらついてくる。
薮をジグザグに抜けて、ようやく草の上に出た時には、トゲに引っかけられたシャツがあちこちほつれていた。腕にはひっかき傷ができて少しひりひりする。
そこで遠くからアラームの音が聞こえた。
え……もう1時間経った? どうしよう……
ここで向こう側に戻ったら、またこの位置に戻れるかどうかわからないと思った。
目を閉じて、意識を戻す。うす目を開けてアラームに手を伸ばし、それを止める。それからもう一度、目を閉じ、二つ目の世界に引き返した。
目の前にはさっき見ていたのと同じ景色が広がっていて、ほっとする。腕がひっかき傷でひりひりする感覚も、そのままだ。
先に見える湖は、表面が黒曜石のように光っている。
湖の近くまで来たところで立ち止まった。
岸辺に人がいる。
草の上に寝そべってる。それも裸の若い男性。
日光浴をしてる? ここでそんなことをする意味があるのかな。
あれは人間? 人間の姿をした何かの精? それとも、もしかして私の妄想?
とりあえず近くの低い木の後ろに身を隠して腰を下ろす。隠れる理由はないけれど、それでも裸の男性がいるところには近寄れない。
ここで待っていたら、そのうちいなくなってくれるかな。
草を踏んで近づいてくる足音に、どきりとする。
「誰だ?」
若い男性の声に、顔を上げる。
幸い、青年は服を着ていた。それも普通の現代風のシャツにスラックス。栗色の髪は柔らかそうな巻き毛で、黒い瞳。
セレスティンより少しだけ年上に見えたが、繊細そうな顔立ちは少年ぽい雰囲気もある。
「……あなたは人間?」
青年がくっくと笑う。
「そう言う君はどうなんだ?」
興味深そうにセレスティンを見る。
「君は魔術師なのか」
「違うけど……」
「こんな大きさのサラマンダーは、よほど力のある魔術師でなければ扱えない」
「これは護衛につけてもらってるの」
青年が何かを確かめるようにセレスティンを見つめる。
「大物の魔術師に護衛をつけられるほど、君は重要人物なわけだ。名前は?」
「……」
答えそうになるのを、思いとどまる。
青年が目を細める。
「知らない人間だから用心してるのかい? ああ、その魔術師に言われてるんだな。僕はガブリエルだ」
「……」
「名前は言いたくなければいい。それより、ここで何をしている? それも秘密なのかい?」
「水のある場所を探してたの。それで、遠くからここが見えたから……あなたは普通の人間なの? 湖の精とかじゃなくて?」
青年が面白そうに笑う。
「ああ 普段はニューヨークに住んでいる」
「ニューヨーク……」
「君もか?」
「ううん 一度だけ行ったことがあって、知ってる人がいる」
青年の目が何かを確かめようとする。
「護衛をつけた上で、一人でこちら側に送り出されているのは訓練中だということだな。
まあいい。僕はここには息抜きで来るのさ。
君は水を探していると言ったな。こちらに来てみればいい」
青年が湖の方に戻っていくので後についていく。
岸に歩み寄って、水面をのぞき込む。黒い鏡のように自分が映る。でも水の質がなんだか変……中が見えない。
手を伸ばすと、手首から先が水の中に消えた。黒い水……?
突然、引き込まれて水に落ちそうになる。青年の手がセレスティンの服をつかみ、後ろに引っぱられて尻餅をついた。
青年と反対側で距離をとりながら構えるサラマンダーの体が、警戒するように早いペースでちらちらときらめく。
「……ありがとう。これ 普通の水じゃないんだ?」
「見ての通りさ。普通の世界では物理法則がすべてを支配する。表面がすべての波長の光を反射するものは白く見えるし、光を吸収するものは黒く見える。
そういう物理法則はこちらの世界では通じない。この水はすべての光を吸収しながら、同時にそれをのぞき込むものの姿を映す。
君はまだ勝手がわかっていないようだが、知らないものにうかつに手をつっこむのは止めた方がいい」
「こっちの世界の水って、みんなこんなの?」
「この水は特別だ。他の場所に行けば、普通に透き通った水もある」
ふと青年は何かに耳を傾け、それから言った。
「僕はそろそろ戻らなくてはいけない。明日、この時間にまた会おう」
「……」
「もう少し話をしてみたいだけだ。こちら側の世界について、教えてあげられることもある。
ただ、僕と会ったことは誰にも言わないでくれるね。君が名前を明かしたくないのと同じように、僕にも守りたいことがあるからね」