4. 献身者

 アメリカがイギリスに対する独立戦争を戦う以前から、ガレン家はイエズス会[ジェズイット]とつながりがあった。代々、学者や医師に加え、イエズス会の司祭や修道士を輩出してきた家柄だった。
 イエズス会[ジェズイット]は現在も過去も、きわめて先進的な思想団体である。
 植民地時代の南北アメリカでは、インディオと呼ばれた先住民に人権を認めることを主張し、奴隷取り引きに反対を唱え、改宗したインディオを奴隷商人から保護するために町や保護領を建設した。そのためスペインやポルトガルの奴隷商人や、奴隷貿易の利権を抱える政府高官から忌み嫌われ、執拗な妨害と攻撃の対象にすらなった。
 「宣教・教育・社会正義」がその活動の柱であり、多くの分野で多数の優れた学者や教育者を輩出したが、その組織の構造は基本的に軍隊と等しい。
 ただし自ら武器をもって戦うのではなく、教育や社会活動を通して見えない場所からゴールの実現に努め、そのために高度の諜報、人心掌握や扇動の知識と技術を蓄積してきた。
 訓練を受け、「従順・清貧・貞潔」の誓いを立てた修道士は、命令を受ければ世界のどこにでも赴いて活動する。
 「教皇の精鋭部隊」とも呼ばれるイエズス会は、「より大いなる善のためには手段を選ばぬ組織」として、歴史に残る多くの陰謀がその手によるものと噂されてきた。
 ガレン家はアメリカ独立以前、メリーランド植民の時代にいち早くアメリカに渡り、膨大な富をなした。そして手にした資産を用いて修道士たちを支援した。
 ジョージ・トーマス・ガレンは、ワシントンDCにあるイエズス会系の大学で政治学を専攻し、在学中に修道士となることを志願した。大学卒業と同時に志願者の選別期間を終え、修練院に進んだ。
 司祭を目指すか修道士になるかを決定する時期が近づいた頃、一通の書状を手渡された。
 それからしばらくしてガレンは修練を中断し、ローマに渡った。当時まだ存命だった父親には、自分の道を決定する前に世界を見ておきたいのだと説明した。
 2年後、アメリカに戻ってきたガレンは修練院に戻らず、実業家だった父親の仕事を継ぐと申し出た。
 息子の心変わりに父親は驚いたが、信頼できる後継者を得たことを喜んだ。それに安堵したのか、父親はそれからしばらくして病を得ると、病状は思いがけぬ早さで悪化し、この世を去った。
 ガレンが教団[オルド]の扉をたたいたのは、それからしばらくしてのことだ。

 白魔術教団の執務室から見える、よく手入れされた中庭。
 ガレンは窓辺に立ってそれを眺めながら、総長[ファーザー・ジェネラル]との会話を思い出していた。