6. かすめる

 ガブリエルと名乗った青年が姿を消した後も、テロンはしばらく彼がいた空間を目で追うようにしていた。
 やがて納得したようにきびすを返す。
「行くぞ」
「ごめん……」
「お前のせいじゃない。俺の腕をつかめ。離れるな」
 言われて彼の腕につかまる。
 シャツを通しても温かい。これは彼の体温なのか、フィールドに反映される火の質なのか。
 森とは違う方向に歩き出す。
「あいつと何を話した?」
「サラマンダーは生き物じゃないって言われて、むっとした」
 セレスティンの口ぶりにテロンの表情が一瞬、緩む。
「あのガキが言いそうなことだ。他には?」
「私が歩いて来たのを見て、歩く必要なんてないのに、そんなことも知らないのかって」
「……足で歩いて移動しておけば、迷った時に道を引き返せる。一つの点から別の点へと間を飛ばすような移動の仕方をしたら、迷った時に道をたどり返すことができない――とりあえず今のお前は、ということだが。
 あいつは名前を訊かなかったか?」
「うん あと、私が水を探している理由を知りたがってた。教えてないけど」
「名前は座標だ。あいつがお前の名前を知ったら、お前がこちらにいる間は追跡して見つけることができる」
「でも彼は自分の名前を教えたよ、ガブリエルって」
「お前のことを、追跡能力も攻撃性もない無害な存在だと踏んだんだな……あるいは、お前が近づいてくるのはむしろ好都合だと考えたのか」
「名前が座標の代わりになるなら、エステラを直接探すことはできないの?」
「できる。通常の状況なら、ここで待ち合わせることも可能だ。
 だが今はエステラのまわりにはごたごたがあり過ぎるし、ああいう輩がうろついてる。
 エステラも、お前を余計なトラブルから守ろうとしてるんだ。それはわかれ」
「ん……」
「だが水の精を介してメッセージを送る分には、追跡はされない」
「どうして?」
「元素霊[エレメンタル]は、この世界全体に広がっている普遍的な生命だからだ。エレメンタルは人間を識別して後を追うことができるが、人間の力ではエレメンタルを追跡することはできない」
 しばらく歩いた後、テロンが立ち止まる。
 彼が意識を静める。あたりの雰囲気が一変し、ゲール語と思われる言葉で何かがつぶやかれると、景色そのものが変化した。
 二人は、霧におおわれた丘の上に立っていた。目の前にはしっとりと濡れたあざやかな緑が、起伏を描いてどこまでも続く。
 きれい……
 同じことをさらに4回繰り返して、その度に景色がまったく別のものに代わり、最後に馴染みの森の前に着いた。
「……今のは実際に場所を移動した?」
「ああ 追跡をまくためだ。
 お前がこの世界をもっと歩き回って、複数の場所の空間を自分の感覚に確実に覚えさせたら、似たようなことはできる」
 セレスティンを森の境界の内側に入らせ、テロンはその外側に留まった。
「ここから向こうに戻れ。意識を引き戻したら、10分待って俺に電話しろ。しばらくマリーのところに泊まる支度をしとけ」
 明らかに何かがテロンを用心深くさせている。いつも自信たっぷりの彼の、こんな様子は初めて見る。
 そうだ……彼は退役軍人だった。前線で危ない目に遭った経験が、こういう反応をさせるのかもしれない。
「行け」
 そう言われて、ふと言葉が口をつく。
「向こうで 待っててくれるよね?」
「ああ 俺も戻って、迎えに行く」
 その言葉は、セレスティンを安心させてくれるはずだった。でも、自分の深いところで別の感情が動いた。
 (大丈夫……)
 自分に言い聞かせて、森の中に踏み込む。
 ふり返ると、テロンはこちらに背中を向け、何かを警戒するように向こうを見ている。
 見覚えのある背中。
 いつもの彼の姿の上に、重なって見える別の姿……。