26. 手は届かない

 マリーは震えるセレスティンを助けてソファに座らせた。隣に座って背中にそっと手を当てる。セレスティンは涙を拭き、なんとか自分を落ち着かせようとしている。
 テロンにブランケットをもってきてもらい、それでセレスティンの体をくるんで抱き寄せた。やがて涙に濡れた目が閉じられる。
 しばらくそうやっているうちに彼女は眠りに落ちた。
 この眠りは、心が耐え難い不安から自分を守るための防衛。今はそれでいい。
 そのままセレスティンをソファに横たわらせた。
 それからテロンと自分のためにコーヒーを入れる。普段、こんな時間にカフェインをとることはない。
 遅々と過ぎる時間が重苦しかった。二人とも、セレスティンをゆすぶった直感はおそらく正しいと感じていた。
 まだ夜が明けない前にセレスティンが目を覚まし、それと同時にテロンの携帯電話が鳴った。
 話をするテロンの表情は固いままだ。それは単にルシアスが無事だとわかったのではないことを示していた。
 ソファに体を起こしたセレスティンが、その様子をじっと見つめる。
 電話を切ったテロンが口を開く。
「……ルシアスが見つかった」
「どこにいるの?!」
「病院の集中治療室だ……それで 意識がないらしい。ダウンタウンの裏通りで倒れているのを発見されたと」
 セレスティンの表情に、ようやくルシアスを見つけられた安堵と、一刻も早く顔を見たいあせりが入り交じる。
 すぐに病院に問い合わせをして駆けつけた。
 表情の薄い年配の医師は淡々と説明した。
「急性の薬物中毒です。発見された時にはすでに心停止状態でした。蘇生はしましたが、心臓が止まっていた時間が長かったために脳の機能にダメージが出ています。とりあえず自発呼吸はしているものの、意識が回復するかどうかはわかりません」
 医師の言葉をセレスティンはおそらく聞いていなかった。
 その後に5分だけ面会を許される。
 集中治療室のベッドに意識なく横たわるルシアスの姿は、心の準備をしていたマリーにもこたえた。セレスティンがルシアスの名前を呼びながらとりつきそうになるのを、看護師が止めた。 
 「薬物中毒」などではないことはわかっていた。ルシアスを誘拐した者の手でそう装われたに違いない。そして彼が死んだと信じて、その体を放置したのだ。
 だがそんな詳細はどうでもよかった。
 ルシアスは現にここにいる。そして医師の見立てがどうあろうと、彼の意識が戻らないなどということは信じられなかった。
 セレスティンの手を握りながら、マリーは言った。
「あなたもわかっているでしょ、彼は目を覚ますって。だからできることをして、彼が戻って来るのを待ちましょう」
 セレスティンはきゅっと口を結んでうなずいた。

 セレスティンは1日中、ルシアスの横にいた。あれからしばらくしてルシアスは一般の個室に移され、付き添うことができるようになっていた。
 ルシアスの意識はまだ戻らない。それでもセレスティンは彼に話しかけたり、彼の好きな本を声に出して読んだ。マリーに教わり、感覚に刺激を与えるために二人で手足のマッサージをしたりもした。
 そしてわずかにでも彼の目が覚める兆しがないかを待ち続けた。
 しかし何日待っても反応はなく、意識が戻る気配はなかった。
 ベッドのそばに椅子を置いて、セレスティンはルシアスの顔を見つめた。
 眠っているのとは違う。閉じられたまぶたの向こうには誰もいない。彼の魂はここになく、その体は空っぽだ。
 それに気づいた時、セレスティンはいいようのない悲しさと孤独に包まれた。
 彼に出会う前、自分はいつも独りだと感じていた。物心ついた時から自分の中にあった、遠い星に置き去りにされてしまったみなしごのような孤独感。
 それがルシアスと出会って初めて、自分はもう独りではないと感じた。
 その彼が、自分のそばにいない。
 体はここにあっても、彼はここにいなくなってしまった。
 待てばきっと戻ってくる。そう信じていたけれど、時間が経つにつれて、押しのけていた不安は心の中に広がっていく。
 夜には夢を見た。
 あのずっと昔の時代の記憶。愛する人と引き離され、彼が自分のもとに来てくれることだけを、ただひたすら待ち続けた。待つ以外に何もできず、考えられず、そして悲しみに生命を削られて短い人生を終えた。
 それを繰り返し夢に見た。
 手を伸ばしても伸ばしても、愛する人に届かない……その手をつかむことができない……彼は遠くに行ってしまい、自分のもとには戻って来ない……この人生でも。
 その声が呪縛のように自分の中で繰り返された。
 朝、目が覚めた時には疲れ果てていた。体も心も重たくて、起き上がるのもつらかった。眠りと目覚めの間のぼんやりとした空間で、このまま自分も目が覚めなければいいと思いすらした。