セレスティンは自分の中にあるルシアスの記憶をたどった。
ダイビング・ボートの上での最初の出会い。男らに絡まれていたところを救い出してくれたこと。とっつきの悪かった彼の、その奥にある何かがセレスティンを限りなく惹きつけた。
無口で、まわりの人間にも興味を示さないようだった彼が、自分を受け入れてくれた。マウナケアで一緒に星を見た時のこと……彼が自分を信じてくれていると感じた。
はじめの頃は、笑う顔を見ることはなかった。でもその表情が少しずつやわらぎ、時おり穏やかな笑顔を見せるようになった。いつしか自分をひたむきに見つめる彼の青灰色の瞳……。
一つ一つ思い起こすたびに、彼のことが恋しくて胸が痛む。
突然、それまで足下にあった灰色の雲の底が抜けた。引き寄せられるように下に向って落ちる。
音を立てて水しぶきがはね上がり、体が冷たい流れに突っ込む。水に押されながら、なんとか水面に顔を出す。深くて足はつかず、どんどん流されていく。
水の上に頭を出してまわりを見ると、うっそうとした森の中を通り、やがてあたりがどんよりと暗くなって、木々の姿も見えなくなる。
いつの間にか暗闇の中を運ばれていた。
どうしよう……いったん水から出ることを考えた方がいいのかな……でもこのまま運ばれていけば、ルシアスのところにつけるような気がした。
ただ、どれぐらいこの状態でいられるだろう……水の中は体温が下がって体力を消耗する……そう考えかけ、ここでは向こうの世界の考え方は当てはまらないと気がついた。
(肉体ではないから、失う体温はない。自分を内面の火で温めればいい)
誰かが自分の中でそうささやく。
自分の中の火……ルシアスのことを焦がれる気持ち。自分の中にある彼への思いが感情の熱になり、何があっても、どんなことがあっても、彼のもとに行くという意志に変わる。
体の中心部が内側から温かくなり、それが全体に広がって気力が戻ってくる。
大丈夫 このままいける……。
そう思った瞬間、流れの底が抜け、さらに深い水の中へ落ちる。ぐいぐいと水底に引き込まれていく。水面に顔を出すこともできず、このまま溺れてしまうかもと思った。
一瞬、意識がなくなりそうになるのをこらえ、そのまま落ちていく。
気がついた時、セレスティンはまだ半分、水につかりながら、水縁の岩に手をかけていた。全身はずぶ濡れで、髪から水がしたたり落ちる。
空は暗い。恐いような色だと思った。
その暗い空の下に小さな都市が広がっている。風に砂が混じり、行き交う人々の服装からも中近東のどこかだと思った。
その光景がセレスティンの記憶を刺激し、不安と緊張が胸を満たした時、光が暗い空を裂いた。
都市の中心から巨大な雲の柱が立ち上がる。どす黒い雲の傘がみるみる膨らみ、その雲を光と熱が内側から引き裂いた。 知ってる……これは……核爆発の雲。
すさまじい爆風が建物を押し倒し、物やガラスの破片が吹き飛ぶ。あちこちで火の手が上がる。
やがて爆心の方向から、怪我をした人々がよろめきながら歩いて来る。肌から血を流し、力尽きて道に倒れる人……同じように血を流している人がそれにとりすがり、嘆くように天を仰ぐ。道にはがれきやガラスの破片が散乱している。 そこにルシアスがいた。
彼は立ち尽くして、目の前の光景を見つめていた。
水から上がって彼のそばに行こうとしたが、何かにはじき返される。目に見えない壁のようなものが、セレスティンをルシアスから隔てていた。
彼の名前を叫ぶ。しかし声は音にならなかった。
そして気づいた。すべてが無音なのだ。破壊の音も、逃げ惑う人々の叫びも、怪我をして倒れる人々が発しているはずのうめき声も、何も聞こえない。 幼い子供がよろけながら歩いていた。肌がぼろぼろで、血が流れていた。強い放射線による熱傷。 ルシアスが子供のそばに駆け寄る。小さな体を支えようと手を差し伸べた時、彼の手は子供の体を通り抜けて宙をつかんだ。触れることすらできない。子供はそのまま道路に倒れ、動かなくなった。
長い着衣の女性がよろめきながら歩き、そして地面に膝をついた。女性は腕の中に赤ん坊を抱いていた。着衣に火が飛んで燃え上がり、セレスティンは声にならない悲鳴を上げた。
母である女性はルシアスの方を見て腕を伸ばした。その手が、ぐったりとした赤ん坊の体を差し出す。
ルシアスは凍りついたように立ち尽くしていた。彼の手はその赤ん坊を受けとることはできない。
母親の体が前に崩れる。一緒に地面に横たわった赤ん坊は、身動き一つしなかった。
ルシアスはその姿を長い間見つめていた。そして女性の体のそばに座り込み、膝に顔を埋めた。
セレスティンはルシアスの名前を呼びながら、見えない壁をこぶしで叩いた。
ルシアスは動こうとしない。声も届かない。
セレスティンは見えない壁に額を押し当て、泣いた。
突然、背後に水音がした。揺れる水の動きで、何かが近づいてくるのがわかる。
ふり向くと巨大なアリゲーターだった。今まで二つ目の世界で危ない動物に出会ったことはない。でも気をつけておけとは言われていた。
セレスティンが気づいたと知ると、アリゲーターは驚くほどの敏捷さで距離を詰め、足に食いついた。鋭い無数の歯が食い込み、思わず痛みの声を上げる。
ワニはセレスティンを水の中に引きずってこうとする。夢中で岩にしがみつく。
ルシアスの名前を呼びながら、もう一方の足でワニを蹴り、噛まれている足を引き抜こうとする。強い顎が足を締めつけ、歯はふくらはぎにさらに深く食い込んだ。そのまま水の中に引きずり込まれる。
苦痛と恐怖と戦いながら、必死で水の上に顔を出すが、それも長く続かない。
口や鼻から流れ込んだ水が気管に入り、激しく咳込む。もし二つ目の世界で死んだりしたら、どうなるんだっけ……そんな考えが薄れる意識をかすめる。
ううん ルシアスは私を見捨てたりしない。ルシアスを信じてる……どんなことになっても きっと……
必死で水の上に片腕を延ばす。その腕を誰かの手がつかんだ。
聞き慣れない言葉で何かを命ずるような声が発せられ、水の中に響く。足をくわえていたワニの顎が緩んで、セレスティンは血だらけの足を引き抜いた。
強い力で水の中から持ち上げられる。
そのまま腕の中に抱えられ、セレスティンはその相手を抱きしめた。