海が見えるエステラの住居は、彼女がオアフのラニカイで借りていたのと立地も雰囲気も似ていた。ただ、前に広がる海の顔がまったく違う。ラニカイ[天の海]の海は穏やかで、ほとんど空色に近い明るい青色。目の前にあるのは強い風に波立つ暗い海。
こんなふうに異る二つの海がエステラの中にもあって、その対比が彼女を強くしているのだと、ふと思った。
自宅にいても、キッチンを使うことには興味がないらしい。マリーが勝手知った様子でお湯を沸かし、持参していたお茶を入れる。
海の見えるリビングでお茶を飲み、サウスハンプトンのベーカリーで買ってきたパンプキン・パイを食べて、なんだかほっとする。
この一週間の間にぎゅっと詰め込んで経験したことは、少しずつ自分の中でほぐれている。それを吸収し切るには、もっとずっと時間がかかる。
「エステラはいつハワイに来るの?」
「もうしばらくオルドの様子を見て、必要な移行が形になり始めるのを見届けてから。そうしたらハワイに向かうわ」
セレスティンの満面の笑顔に、エステラが微笑みを返す。
自分の大好きな人たちと、また時間を過ごしていくことができる。それが最高にうれしかった。
夕方になり、近くの町のレストランで食事をとる。隣に座ったテロンにエステラが話しかける。
「あなたは家は放っておいてもいいの?」
「管理人も置いてるし、今のところ必要なことは電話での指示で住んでるからな。別に俺がいなくても困りはしない」
「テロンの家ってどこ? あ 前にヴァージニアって言ってたよね。ヴァージニア州は南の方?」
「南部州の一つだ。ニューヨークシティから北ヴァージニアまで200キロぐらいだから、距離はそんなに離れてるわけじゃないが」
「ヴァージニアの春の花が、とってもきれいだって言ってたよね?」
「春だけじゃない。秋の紅葉もいい。夏は暑く、冬は寒く、四季の巡りそのものが美しいんだ」
「南部には一度も行ったことがないから、いつか行ってみたい」
「ああ そのうちな。ルシアスと来れば、馬に乗せてやる」
夕食後、ニューヨークシティに戻るためにエステラと別れる。次にまた会えると知っている。だからいったん別れなくてはいけない寂しさは感じたけれど、笑顔で別れることができた。
シティに戻ったら翌朝にはホテルをチェックアウトして空港に向かう。来た時には大き過ぎて、せわしなくて、あまり好きじゃないと思えたシティに、不思議な名残り惜しさを感じる。
なめらかに飛び立った飛行機が、じきに巡航高度に入る。ホノルルまで10時間以上のフライトだ。
フライトマップを見ながら、飛行機がアメリカ大陸を横切って行くのを感じる。
エステラとの距離も広がって、自分と彼女をつなぐ胸の糸が引っぱられる。でもどんなに引っぱられても、その糸は切れはしない。むしろ彼女のことを思う力は強くなる。どれほど離れていても、ハートの糸はつながっているんだ。
「ねえ ルシアス オルドから離れて、これからどうするの?」
「世界の秩序を保つ場所[オルド]という構造の外に出ても、やるべきことは続けられる。ただそれは外的な形のない、人の目に入らない仕事だ。
この世界の背後に、もう一つの世界があることを君はもう知っている。
こちらの世界の出来事は二つ目の世界に影響を与え、二つ目の世界で起きる現象はこちらの世界に影響を与える。その二つの世界のつながりや相互作用を制御するのが、魔術の方法論だ。
俺たちはその道を歩き、自分たちにできる形で二つの世界のバランスを保つことに関わっていく。五人のつながりがそのための土台だ」
「五人?」
「そうだ 君もそのつながりの一部だから」
「だって 私、与えてもらうばかりで 四人の後を追いかけて行くだけなのに」
「そのうち自覚も出てくるさ。急がなくてもいいんだ。道の先はずいぶん長い」
ルシアスがセレスティンの手を握る。その手を握り返す。胸が温かさで満たされる。
窓の外で誰かがノックする。見ると、チェシャ猫のように透明な顔がのぞいている。
「シルフ!」
セレスティンが気づいたのを確認すると、若いシルフはすいと離れ、飛行機をとり巻く他の大きなシルフたちの中に溶け込んだ。
雲が切れて、ずっと下の方に、輝くような白い雪におおわれた山が見える。その荘厳な姿に引き寄せられて、窓に額を押しつける。
「あれは?」
「グランド・ティトンだ。もう2時間もすれば太平洋に出る」
やがて雲の合間から西海岸の海岸線が見えた。
機体が海に出た瞬間、それを体で感じた。
胸が高鳴る。
広く、深く、あらゆるものをその内にはらむ海。
そのまっただ中にある真珠のような州[くに]に、今は帰る……。