2020年10月末
エステラの住居はロングアイランドの先端の海沿いにある。週日はニューヨークシティにあるマンション[アパート]とオフィスの間を行き来するが、週末はこの海沿いの住居に戻る。
窓の向こうには、さえぎるものなく大西洋が広がる。濃い青色の海の表情はやや沈んで、冬には吹きすさぶ、時に雪交じりの風とあいまって、荒涼とした感じさえ与える。
だが、冬まではまだもう少し時間がある。
今は秋に入り、ようやく風が涼しくなり始めた時期だ。シティから訪れる避暑客たちの姿も消えて、静けさが戻っている。
エステラは遅い午後のビーチの白い砂の上を歩いた。
オアフ島で滞在したラニカイの、ひたすら穏やかな水色の海を思いだす。
オアフで過ごした時間が懐かしく思われる。わずか二か月ほど前のことなのに、もうすでにずっと昔のことにすら感じられた。
しばらく波打ち際を歩き、カモメの声の入り交じる波の音を聞く。
サンダルを脱いで、水に足首をつける。水温はまだそれほど下がっていない。
どこかから、ごく微細なハミングのようなものが聞こえた。
意識を澄ませる。
人間の声でも、シルフたちの声でもない。水を通して、さざ波のように神経に直接伝わってくる。
不思議に思って立っていると、たくさんのミズクラゲ[ムーン・ジェリー]が、波に揺られながら、波打ち際と深い水の間を行き来している。
そのゆったりとした動きを目で追っていたが、かがんで水に手をつけ、耳を傾けてみた。
意識の中に、ふわりと花のようにイメージが開く。
エステラは思わず声を上げて笑った。
「本当にあの娘[こ]、おかしな才能があるのね」
メールも電話もするなと言ってあったが、それで素直に諦めるとは思ってはいなかった。
きっとテロンやマリーに相談し、何とかして自分に迷惑をかけない形でコミュニケーションを試みるだろうとは思っていた。
しかしエステラの寝室は、生きた人間がアストラルを通じて侵入することができないように封じられている。そのため夢を通しての接触もできない。
まさか、こんな通り道を見つけてくるとは――
セレスティンは大学のクラスが終わって、アラモアナ・パーク前のビーチを歩いていた。
海の方から呼ばれたように感じる。しばらく波打ち際に立って様子を感じていたが、サンダルを脱いで水に入った。
ミズクラゲのスピリットの存在を感じる。
地下の世界[アンダーワールド]で知り合いになってから、こちら側でもその存在を感じることができるようになっていた。
それは透明で、そしてミズクラゲの棲むすべての海をつなぐほど広い。
その存在は多分、いつも感じていた。海で泳いだり、ダイビングをしていた時も。ただ、地下の世界でその存在をはっきりと見て、自分の体に感じさせてから、意識してつながることができるようになったのだと思った。
スピリットが言葉をかけ、セレスティンは思わず声を出して答えた。
「言づけを届けてくれたの? え パナマ運河を通って? あ そうか ニューヨークの海は大西洋なんだ……うん ありがとう」
感謝の気持ちで水を抱きしめたい気分になったが、それは無理だ。クラゲを撫でるわけにもいかない。
ミズクラゲのスピリットが笑う。
「慕う人への気持ちを送り届けるのは、めったにない楽しい仕事だ。
今は海に生きる部族の人間の数もめっきり減ったし、若い者たちはクラゲのことなど相手にしない。
返信がある」
返信! セレスティンはうれしさに歓声を上げそうになるのをこらえた。スピリットの言葉を聞き逃すまいと意識を澄ませ、感覚を開いて待つ。
何かが水の奥から浮かび上がってくる。
見つめていると、淡い真珠色の光に包まれた笑顔が水面に浮かんだ。
風の精[シルフ]たちは、自分の意志を持った生きた風のように見える。水の精[ウンディーネ]は……生きた水が、ゆらゆらと揺れながら自分を見つめ返す。その「瞳」には知性の輝きがあった。
人間の知性とは違う、しかしまぎれもなく「知性」と感じられるもの。透明な流れる水のドレスをまとったような柔らかなからだ。これがウンディーネ……。