8. つかむ

 ジレは立ち止まって「視線」を感じた方を見上げ、気配を探ったが、それはすでに消えていた。
 ホテルのドアマンが声をかける。
「ビーチなら、あちらから行けますよ」
「いや 表通りを少し歩いてみたいんだ」
 海に興味はない。むしろ騒々しい波の音や潮の匂いが好きではなかった。自分が好む水は、静かで鏡面のように滑らかな湖だ。
 ホテルのある場所はワイキキから離れているが、通りには店がたち並んで明るく、人通りも多い。
 歩きながら考えた。
 さきほどの気配は元素霊[エレメンタル]のように思われた。風の動きに混じっていたということは、シルフか。
 シルフを含むエレメンタルは自然現象の一部だ。人間が理解する意味での知性や意志は持たないし、基本的に人間に特別な興味は持たない。
 エレメンタルにとっては一般の人間は、他の動物と同様、環境を構成する一部でしかない。
 例外は、その人間が特別に強い力[フォース]にとりまかれている場合だ。例えば訓練された魔術の実践者なら、精神力の強さが大きな力[フォース]を生みだす。
 通常の人間のレベルを超えて強いフォースを発し、それを自らの意志の力で操ることのできる人間は、エレメンタルには目だって見える。
 だから自分がこの土地のエレメンタルの注意を引くことは、あってもおかしくない。
 それから、二つ目の世界でのあの娘とのやりとりを思い出す。敵意を示すサラマンダーを罰しようと手を上げた自分に対して、彼女はそれをかばおうとした。
「このサラマンダーたちは、私について来て守ってくれた。だから私も彼らを守る」
「人間が火の精を守るって? だいたい、そいつらは君が理解する意味での生き物ですらない。単なる火の元素の集まりだ」
「知性があって、自分の意志で動いてるんだから、生き物! 生き物を邪険に扱う人は、私、嫌い」
「いいか こいつらに自分の意志なんてない。こんな形をとっているのも人間の主人の力を借りてるんだし、その主人の言いつけ通りに動いているだけだ。知能のように見えるのは単なる反射さ」
 自分の言葉はあの娘をひどく刺激し、彼女の腹立ちぶりは笑いだしたくなるほどだった。
 だが確かに、あのサラマンダーたちはまるで番犬のように彼女に懐いているように見えた。あの時は、単にオディナの命令に忠実に動いているのだと思ったが。
 しかし後から考えてそれは妙だとも思った。
 エレメンタルは、元素の性質を持った集合意識のような存在だ。それに「個」という概念はなく、そしてだから、個人としての人間にも興味は抱かない。
 人間とエレメンタルの関係は、力と必要性に基づいたギブアンドテークだ。
 それから思った。
 西洋魔術で知られているのとは違う形でエレメンタルを手なずけるのが、あの娘の特殊な能力だということがあるか? それをオディナは知って、彼女を使うために育てているということが? 
 それは自分でも突飛な考えだとは思ったが、そう考えてみると、なぜオディナが彼女に護衛までつけて二つ目の世界で遊ばせていたのかの説明もつく。
 確かめる必要がある。そしてそれが本当なら、どんな手段を使ってでも彼女を手に入れる価値がある。
 そこまで考え、ジレの目は、通りの少し先にある店から出てきた姿に奪われた。
 バックパックを肩にかけ、細身のジーンズにTシャツ。向こう側で見た通りの背格好、髪の色。
 雰囲気には何も特別なところはない。しかし、それが彼女の質の表現らしいとも思った。
 歩み寄ろうとした時、彼女に向って強い風が吹き手にしていた袋を奪った。
 彼女はそれを追いかける。袋はその手を逃れながら飛ばされていき、彼女は身軽に通行人を避けながらそれを追いかける。
 ジレは走ってその後を追った。
 人の流れが途切れたところで、少女がジャンプして頭の上に手を伸ばし袋をつかむ。
「もう いたずらしちゃだめだってば」
 息をはずませながら、誰かに話しかける。しっかりとつかまえた袋をバックパックに押し込む。風はまだ彼女の背に向って吹きつけていた――まるで先を急がせるように。
 ジレは足早に歩み寄った。
 明るく優しい顔立ち……空のように青い瞳……。
 こみ上げそうになる笑いを抑える。
 シギルが結果をもたらすことはわかっていたが、ここまで速やかだったことはない。
 立ち止まって見つめる自分に彼女が気がついた。
 表情が驚きに変わり、こちらを見つめ返す。
「やあ」
「……」
「会うのはこれで3度目だね 向こうでの2回を入れて」
「あなたは……」
「僕の名前を覚えているだろう? ガブリエルだ」
 戸惑いの表情。同時にそこに、この不思議な出会いへの興味と好奇心が入り混じるのを、ジレは見逃さなかった。
「君のまわりの人間たちは、君が僕に近づくのを妨げようとしているようだが……こうやって生身で会ってみて、僕はそんなに危険な人間に見えるかい?」
「……ううん」
 素直だ。口を閉じることはできるが、嘘はつけない。
「ニューヨークから着いたばかりで、まだ少し時差が抜けてないんだ。コーヒーが飲みたい。この近くにカフェがあれば案内してくれないか」