19. 重なる

 ホノルル湾に面するルシアスのコンドミニアム。リビングからバルコニー[ラナイ]に続くガラス戸が開け放されて、その向こうで彼がハンモックにあぐらをかいている。
 セレスティンにねだられて取りつけたハンモックだが、ルシアスもそれなりに気に入っているようだ。風に揺られながら海を見たり、考えごとをしている。
 床から足を離すと、地上の重力から少し自由になれる。彼は多分、それを気に入っている。いつだったか「ダイビングをするのは魚を見たいのではなく、重力に縛られない感覚を味わいたいから」と言っていた。
 セレスティンがラナイに出ると、ルシアスがふり向いて手をさし伸べる。ハンモックのバランスをとるように腰を降ろし、彼の腕が背中を抱く。針葉樹のような青い透き通った匂いがする。
 それは物理的な匂いではなくて――二つ目の世界では、目に見えないはずの存在の形が目に見える。それと同じような感じで「匂い」を感じる。
 彼をとりまく場[フィールド]の質を、匂いと感じているのかもしれない。
 揺られながら彼の肩にもたれ、それから訊こうと思っていたことを思い出す。
「メディテーションで向こうの世界に行くようになって、ずっと森の中を歩いているって言ったでしょ。
 もう結構、森を探索してると思うんだけど、動物や、鳥や、植物の精は出てくるの。あとシルフも。だけど他の人間には会わないの。そういうものなの?」
「それは森がまだ、君自身の個人的な意識の範囲だからだろう。君個人の深層意識の領域。そして動物や植物の精はそこに出入りできるということだろうな」
「ということは、森を抜けるかすれば、そのうち他の人間にも会う?」
「そうだな 個人的な意識の領域の中でも、人間の姿をとった元型[アーキタイプ]に出会うことはあるが。そこを出て二つ目の世界の一般的な領域に足を踏みだせば、他の人間に会う可能性はある。
 ただそういう遭遇には注意がいる。
 君個人の意識の領域は、自分の家のようなものだ。そして一般的な領域はその外の世界。家の中のことには君自身の深層意識のコントロールが利くが、その外では必ずしもそうではない。
 君の深層意識はそれも予期して、ゆっくり慎重に準備を進めているように思う」
「うん ゆっくり過ぎて、何とかならないかなって思ったこともあるけど。でもいろんな生き物たちに助けてもらって、もういいやって思うようになった。行けるところまで行こうって」
 ルシアスがうなずく。
「エステラはニューヨークに帰る予定だが、それが彼女との関係の終わりじゃない。テロンの画策が形になるなら、また会う時が来る」
「ほんと?」
「ああ テロンにもエステラを説得することなどはできない――彼女がノーと言ったらノーなんだが、しかしあいつもこのことに関しては根比べをするつもりでいる」
 そう言ってルシアスは笑った。
「俺にはそんな忍耐力はないんで、横で見物させてもらうが」
「テロンは何を画策しているの?」
「……やることがあるのは確かなんだが、それが何なのかは俺たちにもはっきりとは見えていない。だがそれがあったから、マリーを探し当てることができた」
 マリーと初めて会った時、ルシアスが彼女に「どこかで会わなかったか」と訊ねたのを思い出した。
「そして君がいることにも意味があるようだ。エステラがなぜ君を教えることにしたのか、はっきりとした理由は聞いていないが、彼女がそう決めたことには必ず理由がある」

 ダウンタウンでルシアスと夕食をとり、それから自分のアパートまで送ってもらう。
 その夜、セレスティンは夢を見た。

 深い深い藍色の空。それが無数の星の光で埋められている。見つめているだけで泣けてきそうなその光景。
 自分の声が大切な男[ひと]の名前を呼び、強い腕が自分を抱き寄せる。
 顔を空に上げたまま問う。
「空の星を見つめる時、なぜ懐かしいと感じるのだろう」
「そんなこと、俺が知るものか」
 笑いを交えた声。そして空を見上げる。
「だが……それは本当だな。こんな晴れた夜の空はとくに、妙な具合に胸の奥がうずく」
 二人は煉瓦造りの屋敷の屋上から夜空を眺めていた。
「このまま星を見ながら眠りたい」
「相変わらず、何を言いだすかわからぬな……それもよいか」
 召使いが呼ばれ、煉瓦の床の上に厚い絨毯や何枚もの敷布を重ねて寝床がしつらえられる。枕元にろうそくのランプを置き、水差しや果物の盆を並べて、召使いたちが階下にさがる。
 ろうそくの光が、つやのある彩色煉瓦の花や動物の姿を照らしだす。
 二人で横になり星を見た。やがてろうそくの火が吹き消される……。

 カーテンの隙間から朝の光が差し込み、目が覚める。
 見続けていたかった夢……。
 しばらく目を開けたままベッドの上に転がって、夢を記憶に留めようと努める。
 いつか、どこかで見たことがあるんだ……そう思い、記憶を探る。
 同じような夢を前に見た……あれから忘れていたけれど。
 熱い風の吹く丘の上に、背の高い褐色の肌の若者がいた。腰に太刀を帯び、肩布をかけて。それはとても懐かしく大切な人で、その表情を見た時に胸が熱くなった。
 経験はすごく鮮明で、風の熱い肌触りや匂いまで感じていた。まるで自分の記憶を実写で経験し直したみたいと思った……そんな「記憶」はないのに。
 あの時は、昔見た映画か何かのイメージが夢になったと思うことにしたんだった。
 今朝の夢は、あの夢とつながっているような気もする。
 でも、これをルシアスに話すのは止めておこう。
 まるで彼と自分をロマンチックな物語の登場人物になぞらえているみたいで、少し照れくさいから。