何日かしてマリーはルシアスをお茶に招いた。
海軍の情報将校としてアラビア語の情報分析を担当していたという彼は、最近はぽつぽつ翻訳の仕事などをしながら過ごしていた。アラビア語以外にもドイツ語、ギリシャ語など幾つかの言語に堪能なようだった。
庭のテーブルにお茶の支度をする。今日はオアフではまれな貿易風の間隙に当たり、風がほとんどなく、庭には薔薇[ロケラニ]の香りが満ちていた。
お茶を注ぎながら、テロンの話をルシアスに伝える。そして今後のセレスティンの教育について、どうするのがよいと思うか訊ねた。
ルシアスは考え深げな表情で黙り込んだ。カップを手にセレスティンのこと、そしておそらくはテロンの言葉の意味を吟味しているようだ。
ふと、誰かが門をくぐった気配。庭の小さな生き物[エレメンタル]たちがさざめく。
ルシアスも何かに気づいたようにカップを置いた。
「おじゃましてもいいかしら」
背後から聞こえた女性の澄んだ声に、ルシアスがわずかに驚きを浮かべてつぶやく。
「エステラ――」
「すばらしい庭ね。空間を満たすエネルギーの純度といい、密度といい、まるで別世界だわ」
ルシアスがゆっくりとふり向く。
「……テロンが呼んだのか?」
「いいえ 私の方で訪ねてくることにしたの」
すらりとした長身の女性。藍色のショールで長い髪をおおっているが、明るい金髪がそのショールの下からこぼれる。透き通るような白い肌、長いまつげの下の緑[エメラルド]の瞳。
透明で艶やかな声は、魅惑的といっていい響きをもっていた。
間違いない。これが西側。テロンとルシアスの考えている水を司る女神。
ルシアスは立ち上がって彼女のために椅子を引いた。当たり前のようにそれに腰かける彼女の、優雅な体の動き。シルクと思われる着衣が流れるように揺れる。
「君が来ていることをテロンは知っているのか?」
「ええ。空港から電話したら、ここに行けって言ったのは彼だもの。自分は子守の最中だから手を放せないって言ってたけど。あのテロンが子守なんてね。
もっともその相手はあなたの恋人だと言ってたわね。あなたたち3人、いったいどういう関係なの?」
からかうような口調。
「その説明通りの関係さ。いつまでいる?」
「決めてないけど、それほど長くじゃないわ」
「何をしに……と訊いてもいいのか?」
「あなたとテロンがどんな悪戯[わるさ]をしてるのかを見に。でも何となくわかったわ、この庭に足を踏み入れたら」
そう言ってマリーの顔を見る。その緑の瞳の持ち主は、並なならぬ能力の持ち主だとマリーは直感した。
エステラを観察するマリーに、ルシアスが声をかける。
「すまない。これはエステラだ。テロンと俺の……」
言いかけるルシアスの言葉をさえぎる。
「話していいわよ。この庭の女主人に隠すことなんてないでしょ。
東部に拠点を置く白魔術教団の同僚――もと同僚ね。我慢の足りない坊やたちが、椅子を蹴って出ていってしまったから」
エステラの口調にマリーは思わず微笑んだ。これが「俺もルシアスも頭が上がらない」とテロンに言わせる女性だ。
キッチンから追加のカップをとって戻り、エステラのためにお茶を注ぐ。ハーブと花の香りに彼女が目を細め、おいしそうに味わう。
その表情を好ましく思いながら、マリーは話しかけた。
「あなたはその魔術教団で、指導的な立場にあると考えていいのかしら?」
「ええ。私は西のオフィサー。テロンは辞めるまで南のオフィサーだった。そして教団の賢者が急逝した後にルシアスを後釜に就けようとして、反対派との間に揉め事を起こして、嫌気がさしたルシアスは出ていってしまったというわけ。
私は託宣者[オラクル]として教団全体の相談役も兼ねているから、どちらの肩を持つわけにもいかなかったし。中立の立場を守れなければ、託宣者としての機能は果たせないから」
託宣者[オラクル]……。
それはエステラの存在感をぴったりと表していた。目に見えない世界に開かれた鋭敏な感覚と、それを物質世界に下ろすのに必要とされる、明晰で地に足のついた存在感。
「君はまだ教団に留まる予定なのか?」
ルシアスが訊いた。
「ええ。あなたとテロンがいなくなって、あなたたちを支持してた人たちはひどく失望したみたいだけど。でも今はガレンの下で一応まとまっているわ。その辺の政治的な手腕は評価に値するわね。
教団にとって望み得る最良の指導者かどうかは別にして、彼がよほど馬鹿なことをしでかすんじゃない限り、私は留まるわ。
後に続く者の訓練は続けておかなければならないし、今はこの教団の枠組みがそのための最もいい足場だから。
私には居場所はどこでもいいの、自分の仕事さえ果たせるならね」
エステラの言葉を聞きながらマリーは思った。彼女の存在には見事な切れ味がある。
ニューヨーク・シティで心理療法家として仕事をしていたマリーは、「自分には霊的な能力がある」「神のお告げが聞こえる」と信じる人々をそれなりの数、見てきた。
その主張自体が事実であるかどうかを判断するのは、心理療法家としてのマリーの仕事ではなかった。
しかしそういう人々の多くは、目に見えて精神と肉体のバランスを欠いていた。自我の機能が不安定であり、しばしば大きな精神的かい離――時にはほぼ人格の分裂と言えるもの――を抱えていた。
その事実から判断すれば、彼らの言う能力が、単なる直感や思い込みの範囲を超えるものだとは思われなかった。
この世界には、肉体の目に見えない領域が存在する。それはもちろんのこと。
はるか昔から部族のシャーマンやメディスンウーマン、メディスンマンたちがやってきたように、そして現代では人の目につかぬ場所で魔術や秘教の伝統に携わる者たちが行うように、人は訓練を通してその領域と関わることができる。
だが、大地から足を離して見えない領域を探ろうとすれば、それはすぐに妄想へと変わる。人間としての現実的な機能から自分を切り離して見えない領域に踏み込もうとすれば、じきに迷って出てくることはできなくなる。
そういう形で精神の安定を崩した人間をマリーは少なからず見てきたし、そういった不安定さを見分け、感じとることも必要に迫られ学んだ。
そして自分を託宣者とする、目の前にあるエステラの静謐な存在感はマリーを魅了した。
(続く)