自分にとっての世界が、いつの間にか少し広がっていることにセレスティンは気がついた。
それは心理的に自分がもう少し大きくなったと感じるだけではなかった。自分をとり囲む世界の境界も、なんだか変化したように感じる。
マリーの庭で植物を見ていると、何かがそっと目の端に映る。視線を移そうとするといなくなってしまう。何かがそばに来て、自分を見ている気配がする。でも見回しても何もいない。
思いついて本を探した。レプラホーンとか妖精の伝承が豊富なイメージがあったので、アイルランドの妖精譚や民話を集めた本を図書館から借りてきた。
日が少し落ちて、風が凪ぎになる夕方と午後の間の時間。ルシアスの部屋のバルコニー[ラナイ]に座って本を読み始める。
ページをめくりながらセレスティンが悩んでいるふうなのに気づいたのだろう、ルシアスが声をかける。
「どうした」
「植物の精について知りたくて、アイルランドの妖精の話を読んでるんだけど、期待してたのと違うの。
物語としては面白いし、19世紀のアイルランドの人たちが世界をどんなふうに経験していたかもわかって、興味深いんだけど。
でも、妖精たちは隙があれば人間を騙すとか、人間の子供をさらうとか、妖精は天国に行けない決まりで、それを気に病んでいるとか、なんだか納得いかない。
あと妖精っていうよりは、お化けじゃないのって思う話もあるけど」
ルシアスがセレスティンの手にした本に目をやる。
「イェイツの編纂本か……大昔のアイルランドは、目に見えない存在と人間の関係が密だった土地だと思うが、19世紀なってから集められた伝承はキリスト教の影響が濃いし、物語として作り込まれているからな。
伝承というのは、時間が経つにつれて、時代や文化によってたわめられ、内容が変えられていくんだ。とくに宗教は、もともとその土地にあった神話なども、その宗教の世界観に合わせて変えてしまう。時には善悪が逆転させられてしまうことすらある。
……なぜ妖精なんかについて調べてる?」
「この頃、マリーの庭で植物を見ていると、何か気配を感じるの。ちらっと視野に入ってきて、視線を向けると消えちゃうんだけど。それが妖精っていうものみたいな気がして」
ルシアスはしばらく考えていた。それから口を開く。
「それなら、物語の妖精について調べることは余り役には立たない。いずれ近代の妖精のイメージは、シェイクスピア以来の脚色が強すぎる。
君がこれまでに見てきた妖精[フェアリー]やエルフの絵や、映画の中のイメージも、『妖精』という名前でひとくくりにされてきた存在を、象徴的に示しているものでしかない」
「象徴というのは、何かをその代わりに表しているということ?」
「本来あったものの全体の、小さく単純化された断片。
今、妖精譚として残っている物語も、もとになったのは、自然の中の知的生命との実際の交流だったかもしれない。
だが時代を経て、社会や宗教の影響を受けながら語り継がれるうちに、人間に理解できない事実のいろいろな部分が抜け落ちた。
そしてまた人間の願いや不安、恐れの投影といった、余分な装飾がつけ加えられた。
今、文章にして残されているのは、そういうふうに加工された物語だ。それは文学としては価値があるかもしれないが。
そして昔、人間と自然の中の知的生命の間に交流があったという事実を、核に持ってはいる。だが物語の筋や、その生命たちについての記述は、実際の経験からはずいぶん隔たってしまっている。
気まぐれだとか、人間を騙すといった妖精たちの性格にしても、それは人間自身の性質や、自然との関わり方が投影されている。
あげくキリスト教が作られるずっと以前から存在していた彼らを、キリスト教の世界観に当てはめるために、天国に入れない生き物だとか、教会の敷地や鐘を恐れるといった脚色をつけ加える。
だが彼らは、人間が宗教など発明する以前からここにいるのだし、人間の宗教など気にかけてもいない。
そんなことをより分けていかなければいけないから、伝承や物語から手がかりを得るのは手間と時間がかる」
ルシアスの言葉には、「妖精」と呼ばれた目に見えない存在についての疑いは、一切はさまれていなかった。その存在自体はあたりまえのこととして受けとめられてる。
時々ルシアスのまわりで感じる、生きているような風のことを思い出す。
「それは目に見えない生き物なの?」
「普通の人間の目に映らないという意味ではな。
マリーの言葉を思い出すといい。見るというのは肉体の目だけの機能じゃない。それ以外のたくさんの感覚が、見るという知覚につながっている。
そして肉体の目に映らないということは、その存在が曖昧であるとか、現実から遠いということではないんだ」
肉体の目に映るかどうかは、その生命の確からしさとは関係ない。
「ルシアスはそういう生き物を見ている?」
「――必要がある時。それから彼らの方で、その姿をこちらに見させようとしてくる時には。
君に起きているのもおそらくそんなことだろう」
(これが――ルシアスが生きている世界の一端なんだ。そして今、彼は私がその入り口に立つのを許してくれている。
彼はきっと、そのために私の準備ができるのを待っていてくれた)
「妖精という名称には、人間側の脚色や投影が多く絡まり過ぎている。妖精の物語は、楽しむために読んでおけばいい。
自然の中の目に見えない存在たちは、人間とは完全に異なる生き物だ。人間とは違う視点と存在の仕方を持っている。
そして彼らには自然を内側から動かす力もある。
だがそれは物語に出てくるように、人間が小ずるい知恵で騙したり、利益のために取り引きをし、言うことを聞かせることができるというようなものではないんだ。
そんなことを試みる者に対しては、彼らの反応は気まぐれだったり、時には悪意を持っているようにさえ見えるだろう。
彼らには知性があり、彼らの世界の目的があり、論理[ロジック]がある。それは人間の世界よりもはるかに秩序だって、ある意味、論理的だ。
唱えるだけで彼らに言うことを聞かせられる呪文など存在しないし、魔法のつえやお守りなどに意味はない。人間が自分自身の内面を変えることによってしか、彼らの力を借りることはできない」
ルシアスは言葉を切り、思案深げにセレスティンの目を見つめた。
「君自身と彼らの関わり方は、これから君が自分で見つけていくだろう。
この道は、危険のまったくない道ではない。
だがマリーの庭は高度に管理された空間だ。あそこで起きることについては、自分の感覚と経験を信じていい。そして迷った時には彼女に訊ねればいい」