大学のクラスを終えてマリーの家に行くと、テロンが庭のテーブルで本を読んでいた。
セレスティンに気づくと本を置いて、グラスの飲み物を手にとる。
「それ、ただのアイスティー? ウォッカとかテキーラとか入ってない?」
「俺は飲む時は上等な酒しか飲まないし、いい酒をそれ以外の液体で薄めるような馬鹿はしない」
一応、理屈になってる。
そういえば、たまにマリーのところでいっしょに夕食をとることがあるが、ワインを軽く一びん空けても、彼からお酒の匂いがしたことはない。アルコールはテロンの口に入ったとたん、まるで蒸発してしまうみたいだった。
ある時マリーが「テレンス」と呼びかけるのを聞いて、それが彼の本名で、「狩人[テロン]」というのは、軍でのオペレーションネームからとったあだ名だったのを知った。姓は「オディナ」というケルト系の名であることも。
「テロン」
「なんだ 小娘」
「小娘っていうの、やめてよ。だいたい、ひとを子供呼ばわりするほど自分は年とってるの?」
「さあな」
「もうずっと仕事してるふうがないんだけど、大丈夫なの?」
「ここへ来る直前に退役したばかりだからな。勤めてる間に使ってる暇がなくて貯まった金もある。まあしばらくの骨休めだ」
セレスティンは改めてテロンを見た。
見た目は若い。引き締まった体格も動きの軽さも、カネオヘ地区で見かける二十代の海兵隊員たちと区別はつかない。
でも彼からにじみ出てくる落ち着いた迫力は、ただの「若者」のものではない。彼が本気で命令したら、誰でも言うことを聞かずにはいられないだろうと思う。
「テロンて年齢不詳だよね」
「なんだそりゃ」
「見た目と存在感が合わない」
「そんなことか」
彼が再び本を手にとって、椅子にもたれる。
「いずれ見た目の年齢なんてのは、意味のない尺度だぞ。どこの世界にも、同じような歳で若く見えるやつもいれば、年くって見えるのもいるだろう」
確かに、肉体の年齢の進み方は人によって差がある。その差は若い頃にはそれほど目立たないけれど、積み重なると多分、大きくなる。
「そして生まれてからの年数も、内面の経験を測る尺度にはならん。つねに精神を張りつめて生きてるやつの一年は、何も考えずに半分眠って過ごすやつの十年にも、それ以上にもなる」
テロンはきっと、ぴしりと張りつめた人生を生きてきたのだろう。でもそれについて訊くのは止めた。軍にいたのなら戦争の経験や、話したくないこともあるかもしれない。
「でも人間は、生まれた時はみんな同じ地点からスタートだよね?」
「同じじゃない。スタート地点はこの人生じゃないからな」
セレスティンはその言葉に少し考え込んだ。
テロンはまた本を手にとり、読んでいた続きのページを開こうとする。
「スタート地点はこの人生じゃないっていうのは、この人生の前にも人生があるっていう意味?」
「……ああ」
「信じてるの、そういうこと?」
「信じるもくそもあるか。知ってるんだよ、いやと言うほどな」
徹底した現実主義者のように見えるテロンの口から、そんな言葉を聞くとは思ってもみなかった。
そう言えば、初めて会って食事をした時、ルシアスのことを「ずっと昔から知ってる人みたい」と言ったセレスティンの言葉を、彼が何も言わずに受け入れたことを思い出した。
テロンは髪をかき上げ、グラスのアイスティーを傾けた。氷がからんと音を立て、水滴が流れ落ちる。
「まあ俺の言うことなんぞ話半分に聞いておけばいい。そうだな……プラトンでも読んどけ」
「どうしてプラトン?」
「読んだことあるのか?」
「ない」
「『国家』第十巻。あとは自分で探せ」
テロンが「あとは自分で」という時は、「話はこれで終わり」という意味だ。言われた本を読んだり、自分でいろいろ考えてみたりしてからでなければ、続きの相手はしてもらえない。
それは子供扱いされている気もしたけれど、でもテロンの知ってることをもっと教えて欲しくて、結局言うことを聞くことになる。
携帯で検索をして、プロジェクト・グーテンベルクのサイトで『国家』の全文を見つけられた。古典はオンラインでアーカイブされているものが多くて、本を探したり買ったりしなくていいのは助かる。
読み始めると意外と面白い。
……ソクラテスって、偉い哲学者っていう印象しかなかったけれど、魂の生まれ変わりなんて話をしていたんだ。そう言えばダイモンっていう、目に見えない導き手の存在を信じていたと、哲学史の教科書で読んだっけ。
それにしても元軍人が昔の哲学書を読んでるなんて、ますますテロンという存在の底が見えない。
携帯から目を上げて、本を読む彼の顔をちらりと見る。
その表情は考え深げだ。
何を考えてるんだろう……。
ふと何かが足もとを横切り、セレスティンは注意をもっていかれた。
犬ぐらいの大きさの動物のような気配。そう思ったが、もちろん足下には何もいない。ただ、ふくらはぎに熱気のようなものを感じたと思った。